ルーとライス

 カレーを食べるとき、ルーが先になくなってしまうのが怖い。ご飯とルーを、ちょうどいい配分、ペースを保ったまま食べきりたいのだが、ルーがなくなってしまうことを恐れるあまり、いつもご飯の配分を多めに食べ進めてしまう。すると、ご飯がなくなる頃に、ルーがたくさん余る、という事態が起こる。

 まただ、と思う。ほぼ毎回、と言っていいくらい、こういう結果になってしまうのだ。しかし、何度もそれを繰り返していると「意外とルーは多めにいっても大丈夫っぽい」ということを覚える。それを踏まえた上で、カレーにスプーンをくぐらせる。結果、ルーが大量に余る。自分のカレーを食べる才能のなさに絶望する。

 だが、それよりもショックなのは自分が、いちいちそれを気にして食べている、ということだ。カレーというのはどう食べたっておいしくできているのだから、元来、そこを気にする必要はないのである。だから、何も気にせずばくばくとカレーを食べ進める人の姿を見ると、かっこいい、と思う。ああ、そんなにルーいっちゃって大丈夫なの、ご飯がたくさん残っちゃうよ、ほら、ああ、やっぱり残っちゃった、などと思っている僕に対して、特に気にする素振りもなく「またルーだけなくなっちゃった」などと言われたら、負けた、と思う。

 なぜなら、そっちの方が自然だからだ。以前「放送室」で、ダウンタウンの松っちゃんが、昔、友達の家に遊びに行ったら、その友達がちょうどカップヌードルにお湯を入れたばかりで、三分後に食べるのかと思いきや、松っちゃんとの話に夢中になってお湯を入れたことに気づいておらず、それを見ていて気が気でなかった、という話をしていた。友達との楽しい会話に比べたら、彼にとってカップヌードルにお湯を入れたことなど、どうでもよかったのだ。

 僕は、カップヌードルを食べるとき、底部についているフタ止めのシールをビニールがつかないように慎重に剥がし、沸いたばかりのお湯を線ぴったりまで注ぎ、急いで封をしたあと、ほぼジャストのタイミングでiPhoneのタイマーを押す。普段では見られないようなスマートさで、それらをこなす。なるべく良い状態でカップヌードルを食べたいのである。だが、そうやって作られたカップヌードルはあまりおいしくない。誰かに適当にお湯をいれてもらったカップヌードルの方がおいしい。なぜなら、それは自然だからだ。

 ご飯がなくなって余ったルーを、一人で作った完璧なカップヌードルを食べながら、僕はこういうときあの人なら、どうするだろう、ということを考える。たとえば、カート・コバーンが、カレーのルーとご飯の配分を気にしている姿は想像できない。シド・ヴィシャスが線を越えないかどきどきしながら、カップヌードルにお湯を注いでいたら、いやだ。”本物”はいちいちそこを気にしないのである。

 カレーを食べる、という行為は自分自身を見つめることだ。今日、カレーをうまい配分で食べ切ることによって、自分はなにか変わるかもしれない。もう美容師にどんな髪型にされても、気にすることがなくなるし、好きな子に気持ちを伝えることだって、ライブ中「もっとこいよ!」とお客さんを煽ることだって、できるようになるかもしれない。そんな期待を込めながら、スプーンを手に取り、そっとご飯をすくう。ルーにくぐらせる。よし、いいぞ、今日はいい感じだ、いけるぞ、と思いながら食べ進める。変わるんだ、俺は変われる、想いをスプーンの一掬いに込める。結果、ルーが大量に余る。

 思わず手から離れてしまったスプーンが、皿の上でカランっと乾いた音を響かせる。結局自分はカート・コバーンにはなれないし、ステージ上でギターをたたき壊すこともできないのだ。でも、余ったルーのしょっぱさを知っている者にしか歌えない歌が、きっとあるはず。

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