百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

ピーマンの肉詰め

 「ピーマンの肉詰め」が嫌いである。ピーマンの肉詰めとは、その名の通り、半分に切ったピーマンにひき肉を詰めて焼いたアレである。誰もが一度は口にしたことがあるだろう。うちの家庭では、このピーマンの肉詰めが食卓に上ることが稀にあるのだが、食卓について、あの印象的なフォルムが目に入ると、心の中で「ピーマンの肉詰めか......」と思ってしまう。
 こういう話になると、必ず「どうせピーマンが嫌いなんでしょ」と思われてしまいがちだが、別に、子どもから忌み嫌われている野菜一位であるピーマンが嫌いなわけではない。中に詰められているハンバーグが嫌いなわけでもない。むしろ、どちらも食べ物の中では好きな方に入るのだが、それを掛け合わせることが、僕には理解できない。ピーマンとハンバーグを合体させるくらいなら、別々に食べたほうがいいと思ってしまうのだ。だから、単体のハンバーグと、ピーマンの煮浸しが出てきたら、とてもうれしい。煮浸しは作るのに手間がかかるというのなら、醤油で焼いただけのものでもいい。なんなら、生で食べてもいい。いや、やっぱり生はさすがにないが、ピーマンとハンバーグを掛け合わせることに対するメリットを、僕は感じることができないのである。
 こうなったのも、最初からというわけではない。よくピーマンの肉詰めは、野菜嫌いの子どもにピーマンを食べさせるためのアイデアとして作られることが多いらしいが、僕が子どものときは特に抵抗なくピーマンの肉詰めを食べていた。その時はピーマンとハンバーグを別で食べたいとも思っていなかった。それがいつしか「あれ、なんでピーマンとハンバーグを合体させる必要があるんだ?」と、段々その存在自体が懐疑的になってゆき、気づいたときには「ピーマンの肉詰めアンチ」になっていたのだった。
 そのことを、母親に伝えるようになったのは、最近の話ではない。以前から、何度も何度も「頼むから、ピーマンとハンバーグを分けてほしい」と懇願しているのにも関わらず、母はまるでその言葉を一度も耳にしていないかのように、平然と「ピーマンの肉詰め」を食卓に出してくる。その度に「ピーマンとハンバーグは絶対分けたほうがおいしいって!」と熱弁するのだが、「だって、ピーマンたくさんあるんだもん」とまったく意に介していない。「そうじゃなくて、ピーマンはピーマンで食べたいんだって!」と言い返すと、横にいた妹から「理屈っぽい男はモテないよ〜」と言われる。そうして僕は、喉につまった言葉をぐっと飲み込み、ようやく諦めて、ピーマンの肉詰めを一つ口に運ぶのである。
 もちろん、実家暮らしで、ご飯を作ってもらっている身として、出されたものに文句を言えた義理ではない。そんなことはとっくのとうに承知している。だけど、これは”文句”ではない。”提案”である。きっと、僕が子どものときは、どこの家庭でもそうだったように、子どもにピーマンを食べさせるために作られていたに違いない。だからこそ、ピーマンの肉詰めが食卓に上るのはとても自然なことだったし、それについて誰も苦言を呈する人はいなかった。しかし、ピーマンも普通に食べられる上、特にピーマンの肉詰めが好きで好きで仕方ないというわけでもない(母も妹も)今、ピーマンに肉を詰めて焼くべき理由が、一つもないのである。
 きっと、この日本という国ではこのピーマンの肉詰めのように、合理性よりも優先されるべきものがたくさんあって、それが様々な諸悪の根源になっているに違いない。だけど、ピーマンの肉詰めそのものがこの世から消え去ってもいいかというと、そうでもない。そもそも、僕はカフェオレボウルだったり、純文学だったり、きれいな石やどっかの国の砂漠の砂など、非合理的なものや、直接役に立たないもの、生活する上であまり必要のないものが好きなのに、ピーマンの肉詰めを否定するのは、間違っている気がする。
 それなのに、なんでそんなにピーマンの肉詰めが嫌なんだろうと振り返ってみると、それはハンバーグが昔から好きだったからであることに気づいた。僕の中でハンバーグという料理は、完璧なもので、なにをも付け入る隙のない、強度の高い食べ物だったのだ。だからこそ、ハンバーグとピーマンを組み合わせるのは、お互いの良さを消しあっているようにしか思えなかったのだ。僕は乃木坂46向井秀徳も大好きだが、乃木坂46向井秀徳が加入したら話は違ってくる(それはそれで見てみたいけど)。それとまったく同じである。
 それに、わざわざこうやってピーマンの肉詰めに対して一家言持っているのは、僕というのはこういう人間だということを、人にわかってほしいという面もあるのかもしれない。もし、将来誰かと結婚したとしても、ピーマンの肉詰めが嫌いだから、絶対食卓に出さないでくれ、と言うことはない。食卓に上ったピーマンの肉詰めに対して「ピーマンの肉詰めか......」と思いながら、渋々、口に入れたい。僕がピーマンとハンバーグを別々にして食べたい人間であるということをわかりながら、ピーマンの肉詰めを出されたいのである。なんというか、それはお互いがお互いとしてフラットで、良い関係のように思うし、ひき肉をピーマンに詰めている姿には、誰が作ったって「相手に対する思いやり」が込められているように思うからだ。それはハンバーグとピーマンを別々にしたときには生まれない、あたたかさのようなものがあると思う。一口大の大きさは食べやすいように。野菜も一緒に食べられることから、栄養面も考えられており、作るのに手間もかかる。バファリンはその半分がやさしさでできていると言うが、それと同じでピーマンに詰まっているのは肉ではなくて、思いやりなのである。だから、正確に言えば、僕は「ハンバーグとピーマンを別々に食べたい」のではなく、「ハンバーグとピーマンを別々に食べたいと思いながらも、渋々ピーマンの肉詰めを食べたい」のである。自分でもめんどくさい人間だと思うが、仕方のないことなのだ。
 ちなみに僕のバンドのドラムことマサムくんは、なにかうれしいことがあったときに「うれピーマンの肉詰め」と言う。うれしいときは「うれピーマン」で、更にうれしい場合には「うれピーマンの肉詰め」となるらしい。僕としてはピーマンとハンバーグを別々に食べられることこそが「うれピーマンの肉詰め」なのだが、それをわかった上でピーマンの肉詰めを出してくれる素敵な女性と結婚できたら、それはきっと「うれピーマンの肉詰め〜季節の野菜と丸二日煮込んだ特上グレービーソースを添えて〜」だろう。

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