百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

変なおっさん

 二十二歳にもなると、近所の公園で遊ぶとか、外で元気にはしゃぐ、みたいなことが無くなってしまった。今でこそ、なるべく直射日光と人の目を避け、ハイパーインドア人間として生活している僕だが、幼い頃は毎日のように、外を元気に駆け回っていた。僕の通っていた小学校は敷地がとても広く、ちょっとしたアスレチックがあったり、ブランコやうんてい、鉄棒なんかがあって、公園のような作りになっていた。学校がある日もない日も、いつも学校に集まって、鬼ごっこをしたり、ブランコに乗って勢いよく靴を飛ばして、誰が一番遠くまで飛ばせたか競い合ったり、低い山のようになっている坂の部分を、ダンボールを下敷きに滑走したりしていた。

 特にそのときはブランコが流行っていて、靴飛ばしの他にも、勢いよく漕いで、そのまま大車輪のように一周しようとする者が現れたり、遠心力を使ってそのまま勢いよくジャンプして地面に着地したりする者が現れたり、小学生らしい乱暴な使い方をされていた。僕はバカだったので、ブランコに座り、そのまま横にグルグルと回転し、ギリギリまでブランコを繋いでいる二本の鎖を巻き付けてから足を離し、勢いよく回転するという遊びをずっと繰り返していた。きっと、誰もが一度はやったことがあるだろう。グルグルグルグルグルッ!という激しい回転からの、戻った衝撃で「ウッッッ!」ってなるあの遊び。ひどいときは友達とブランコをすべて占拠して、一斉にグルグルグルグルッ!ウッッッ!を繰り返していた。今思えば何が楽しいのかまったくわからないし、異様な光景である。

 やがて、中学に進学し、高校へ進学し、年齢を重ねていき、いつしか公園に足を運ぶことは少なくなった。もちろん、井の頭公園や、葛西臨海公園みたいな都心の大型公園に行くことはあっても、近所のちょっとした遊び道具があるような公園で遊ぶなんてことは、ほぼ無い。それは、公園で遊びたいという欲求が薄くなったのもあるが、なにより大きいのは、二十二の男が公園にいることが許されていない、ということだ。恋人と深夜の公園で、ブランコに座ってアイス食べる、みたいな光景はロマンチックなものとして社会的に許されるかもしれないが、大学も出た良い大人が、ジャングルジムを駆け登ったり、川沿いの土手でダンボールに乗って滑走している光景は、どうしても異様なものとして映ってしまう。

 以前、歌人穂村弘がこんな話をしていた。

 僕が若かったころ、友達がこういう短歌を作った。「どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ雪のはじめのひとひらを待つ」(萩原裕幸)。これは当時、叙情的でロマンチックないい歌だと、みんな思った。寡黙な青年が公園で知らない少女とコミュニケーションをとって、じゃあ肩車をしてあげるよと。で、肩車をしてあげて、雪がふりそうだなって思いながら、一緒にその最初の一片を待つというのは、すごくロマンチックだと、1980年代には思われた。ところが、今この短歌を発表したら、作中の〈私〉は不審者扱いですよ。どこの子かわからない子をいきなり肩車しちゃったら、それはもうNGですよね。つまり、1980年代から現在までの30年間で社会のOKのコードは激変したわけですよね

 社会の輪郭が縮小したことで、「日本狼も野良犬も変なおじさん」もいなくなってしまった。「どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ」どころか、おじさんが平日の昼間に公園のベンチに座っているだけで、子連れのお母さん達から怪訝な目で見られてしまう。これは公園の話だけではなくて、短歌や詩、音楽のような表現の世界にも言えることで、昔より読者、消費者の意識が厳しくなったことで、お金さえ払えば一切の属性を問われないというような、絶対的な価値観が強く浸透しているという。

 本の献辞ってありますよね。『○○へ』とか。あれを本に入れたことがあって、そうしたら読者から「これは『○○へ』って書いてあるから、なんでこんな本をお金出してわたしが買わなきゃいけないんだ」っていう感想をもらったんです。その感覚って、昔はなかった。いまのお客さんって全能感が強くて、つまり極端なことをいうと、「○○へ」の「○○」に自分の名前がないと違和感を覚えてしまう

 これはどのジャンルにも言えることで、音楽においても、穂村弘の言う「ワンダー(驚異)」的な表現よりも、「シンパシー(共感)」が求められているのは、誰が見てもわかることだと思う。それが良い悪いという話ではなくて、自分も一人の消費者の立場として見たときに、「シンパシー(共感)」ばかり求めていっているんじゃないか、という怖さを感じることがある。わかるものばかり追い求めて、わからないものが現れたときにそれを排他してしまうのは、とても怖いことだ。

 自分の作ったものを「よくわからない」と言われることがたまにあって、その度に「そうかあ、でもそういうもんか」と思っていたのだが、逆に自分の作ったものを自分で説明してみろと言われても、大体の場合、よくわからない。でも、よくわからないけど、それを考えていく作業に意味があると思う。穂村弘が「良い表現というのは不可逆的なもの」だと言っていた。サラダのような、何を選んで、どういう風に調理したのかがすべてわかるような、本質的な変化のない表現はあまり良くなくて、同じ野菜でもたくあん的なものの方が良い。要は、良い表現というのはブラックボックスで、受け取った側も表現した側も、何が起きたのか説明できないもののほうが良い。はたして、自分が「たくあん的な表現」をちゃんとできているのか、と聞かれたら、自信満々に頷くことはできないし、何度もそのブラックボックスを通過できるのは才能のある人にしかできない所業なのだろうが、意識するようにしている。

 公園のブランコに乗って、グルグルグルグルッ!「ウッッッ!」の「ウッッッ!」の時に感じていた、あのよくわからない変な楽しさ。そんな感じの曲や文章が書けたらいいな。

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