百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

fly me to the mars

 初めて行く街へ訪れた帰り、乗ったことのない電車に乗って地元まで帰った。休日の夜の電車は、平日とは違ってどこか活気と酒気に満ちていた。席がすべて埋まるくらい混んでいたが、平日ほどの息苦しさはなかった。僕は空いていた席に座り、ぼーっと本を読んでいると、隣に座っていた青年が、そのまた隣に座っていたおじさんに「アノ......コノ電車ハ、○○ニトマリマスカ?」と片言の日本語で尋ねていた。おじさんは「え?」と聞き返し、すぐに理解したようで「ああ、止まるよ」と答えた。青年は「アリガトウゴザイマス」と言った。それから数分もしないとき、おじさんが見ず知らずの外国から来たと思われる青年に話しかけられたことに好奇心をあおられたのか、「旅行かなんかで来たの?旅行、トラベル」と青年に話しかけた。青年は「アアー、ソウデス、リョコウ」と返していた。ニコニコと答える、外国人の青年に気を良くしたのか、おじさんは「どうして日本に来ようと思ったの?」とか「それだけ日本語話せたらどこでもやっていけるよ」と、しきりに話しかけていた。やがておじさんは目的の駅で席を立ち、「それじゃあ、良い旅を!」と言って颯爽と電車を降りていった。少しして隣に座っていた青年もいなくなった。

 横の席が空いたので、なんとなしに席を移し、端の席で改めて本に目を落とした。青年が去ったのと同時に乗客がたくさん乗り込んできて、車内は相変わらず混んでいた。本の世界に集中していたら数十分が経っていて、ふと顔を上げると、あれだけいた乗客がほとんどいなくなり、周りを見渡しても、その車両に乗っているのは僕と隣に座っている女性、あとは遠くの席に男女がちらほら見えるだけになっていた。「あれ、いつの間にこんな空いたんだろう」と思ったのと同時に、隣に座っている女性の存在にどきっとした。

 僕の座っている席の列には、一番端に僕、そして僕の隣に女性しか座っていない。目の前の列には、誰も座っていなかった。こういう状況になった場合、先ほどの僕のように大抵の人は、「空いているのに他人と隣り合って座っている」という状況を気にして、一つ席をズラして間を空けるか、もしくは居心地の良い端の席に行くことが多い。しかし、隣に座っている女性は席を立つことなく、僕の隣にずっと座っていた。そのことを意識した途端、急にドキドキしてきた。

 普段、こういう状況になって、隣の人が席を移したとき、それがなんでもない普通の行動であると思いながらも、心の底で少しだけ「僕の隣に座っているのが嫌だったかな」とか、「汗くさかったかな」と思ってしまう自分がいる。きっと、単純に居心地の良い端の席に行きたいだとか、せっかく空いているのに隣り合って座るのは窮屈だからと、気を使ってなんとなく席を立っているだけなのだが、隣の人が席を移したときに「隣の人が席を移した」と毎回思ってしまうのだ。

 だからこそ、隣に座り続けている女性の存在が、自分の中でどんどん大きくなってきた。もしかしたら、女性は僕のそういう性格を察して(読んでいる本が西加奈子の『舞台』だったのもあり)、僕のためにあえて、隣に居座り続けてくれているのかもしれない。後から考えてみたら、席を移すために立つのがしんどいくらい疲れていたのかもしれないし、もう目的の駅に近づいていて、席を立つのが面倒だっただけかもしれない。なにはともあれ、「乗客のほとんどいない夜の電車で、他人と隣り合って座っている」という状況に、どこか心地よさを感じていたのだった。

 隣に座っている女性は、「他人と隣り合って座っているのを気にして席を移す」みたいな都会的な自意識を持っていない人なんだろう。きっと、やさしい人なんだろうな、この人にとてつもなく良いことが起こればいいな、そんなことをずっと考えていた。もう目を向けている本は、ただ字を追っているだけで、なにも頭に入ってこなかった。とてつもなく良いことでなくてもいい、帰りに寄ったセブンイレブンのスピードくじが当たってビールがもらえただとか、絶対入らないだろうな、という距離から投げたゴミが綺麗にゴミ箱に入っただとか、割り箸がささくれ一つなくまっぷたつに割れただとか、そういうことが連続して起こったらいいな。そんなことをずっと考えていると、顔も見たことのない、ただ隣り合って座っているだけの女性がどんどん気になってきた。

 この電車に乗っているということは、都心から少し離れたところに住んでいるんだろうな、私服だから仕事帰りではないだろうな。いや、私服の仕事なのかもしれない。きっと、田舎から東京に出てきて、満員電車に驚き、端の席が空いただけですぐに席を移す、みたいな都会的な価値観にびっくりしたが、強い意志とやさしさでもって、そんな都会的な感覚に染まらずにいるのだろう。そんな妄想を一人で繰り広げていると、急に右肩をぽんっと叩かれた。

 「あの......この電車って火星まで行きますか?」

 「え、火星ですか?」

 「そうです」

 「火星には行かないんじゃないですか」

 「え、行かないんですか?」

 「多分」

 「じゃあ、どこまで行くんですか」

 「え、わからないです」

 「どうしてですか」

 「僕も初めて乗ったので」

 「そうですか」

 「火星に行きたいんですか?」

 「そうです」

 「どうしてですか」

 「旅に出ようと思って」

 「旅ですか」

 「旅です」

 「旅はいいですよね」

 「一緒に行きますか?」

 「火星にですか?」

 「そうです」

 「なんでですか?」

 「なんとなく」

 「え、行きます」

 その瞬間、ゴトン、という大きな音とともに、電車が止まった。車内にくぐもった声で、アナウンスが流れた。

 「お客様にお知らせいたします。ただ今小さなデブリが衝突したため、車両点検を行います。安全の確認が取れ次第、運転を再開いたします。ご迷惑をおかけしますが、発車までしばらくお待ちください」

 ふと窓の外を見渡すと、赤みがかった褐色の大きな惑星が近づいていた。遠くに二つの月が、小さく光っているのが見えた。

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