百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

麦茶フラペチーノ

 自分で自分というものを規定しすぎて、それに苦しめられることがよくある。 例えば、昨日の夜、僕はクラッカーにクリームチーズをのせて食べていた。クラッカーのサクサクとした食感と、程よい塩味、そしてクリームチーズの豊かな酸味との調和を、僕は楽しんでいたわけだが、食べながら「アタシ、今クラッカーにクリームチーズをのせて食べている」と俯瞰で見ている自分の存在に気づき、思わず手に持っていたクラッカーを落としてしまった。お前はクラッカーにクリームチーズをのせて食べるような人間ではない、という意識が自分の中に確固として存在していたのである。
 この世の中に、クラッカーにクリームチーズをのせて食すことを禁ず、などという法律はない。クラッカーとクリームチーズを楽しむということは、この地球上の人類、70億人に平等に与えられた権利である。だから、僕がいくらクラッカーとクリームチーズを楽しもうと、誰にも文句を言われる筋合いはないのだが、僕はその行為を自然に行うことができない。
 クラッカーにクリームチーズをのせて食べようと思ったとき、僕は「クラッカーにクリームチーズをのせて食べるぞ」と思いながら、クラッカーとクリームチーズ、そしてバターナイフを取り出し「今からクラッカーにクリームチーズを塗るぞ」と思いながら、クリームチーズをバターナイフで優しく切り取り、クラッカーに塗り「僕は今、クラッカーにクリームチーズを塗ったものを食している」と思いながら、クラッカーの塩味とクリームチーズの酸味を楽しむ。行為の一つ一つに、一々「クラッカーにクリームチーズを塗って楽しんでいる自分」というイメージが、つきまとうのである。例えばこれが、白いご飯と魚の煮付けなら「僕は今、白いご飯と魚の煮付けを食べている」なんてことは思わない。呼吸をするのと同じように、歯を磨くのと同じように、生活の一部として、一つの流れとして、それらを行うことができるのだが、クラッカーとクリームチーズに至っては、そうはいかないのである。
 それはエスプレッソのコーヒーを飲むときでも、そば湯を頼むときも同じで「僕は今、エスプレッソのコーヒーを頂いております」「そば湯でつゆを割ることで、日本の伝統的な食文化を嗜んでおります」と思いながら、それらを口にする。要は、自分の生活の範疇のようなものから浮いている行為に対して、僕は俯瞰的に見てしまうのである。そして「豆の違いもよくわからない癖に無理して飲むな」「昨日まではエスプレッソなぞ飲んでイタリア人ぶってたのに、今日は古風な日本人気取りか」と、自分に対して思い込んでしまっているのだ。
 そんな自分の自意識との葛藤を抱えながら、僕は一冊の本と出会った。穂村弘の『本当はちがうんだ日記』というエッセイである。

 私はエスプレッソが好きだ。小さなカップの底に泡立つ液体がちょっとだけ入っている。香ばしい匂いを嗅ぎながら、カップにそっと口をつける。目を閉じて、ゆっくりと一口啜ってみる。苦い。舌が苦い。(中略)それでも私はエスプレッソが好きだ。その理由は、素敵な飲み物だからである。本場イタリアでは、立ちのみのスタイルの地元のおじさんたちが、三口で飲み干して出てゆくという。またパリのカフェではパリジェンヌという娘たちが優雅な仕草でカップを傾けているらしい。(中略)
 それにしても、私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なのだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。私の素敵レベルは低い。容姿が平凡な上に、自意識が強すぎて身のこなしがぎくしゃくとしている。声も変らしい。すぐ近くで喋っているのに、なんだか遠くから聞こえてくるみたい、とよく云われる。無意味な忍法のようだ。

 ここに書かれているのは、そのまま僕のことだった。昔、好きだった先輩と喫茶店に行ったとき、格好つけてエスプレッソのコーヒーを頼んだら、一口ほどしかない小さなカップに申し訳程度に入ったコーヒーが出てきて、驚いたことがあった。コンビニで売っているような、売り文句としてのエスプレッソ・コーヒーに飲みなれていたため、ただ単に「濃い目のコーヒー」だと思っていた僕は、そこで初めて本物のエスプレッソ・コーヒーを目にしたのである。「なぜ、こんなに少ないんだ......」と目を丸くしながら、エスプレッソ・コーヒーを見つめていると、その先輩に「エスプレッソ、飲んだことなかったんでしょ」と言われた。
 顔から火が出るくらい、恥ずかしかった。まさに、その通りだったからだ。急激に上がる体温と、赤くなる顔を必死に隠しながら「いや、飲んだことありますよ......」などと苦し紛れに嘘を叩くと、先輩はにやにやしながら「本物のエスプレッソは量が少ないんだよ」と言った。
 先輩がそっぽを向いているタイミングを見計らって、エスプレッソ・コーヒーを口にすると、あまりの苦さに驚愕した。穂村弘の言うように「地獄の汁」とでもいうような味がした。ふと顔を上げると、先輩がこちらを見ながら、にやにやと笑っていた。
 当時、高校生だった僕はエスプレッソ・コーヒーを嗜んでいいほどの「素敵レベル」がなかった。穂村弘は先述したエッセイの中で「弱気になった私は卓上のミルクと砂糖をちらっとみて、しかし、目を背ける。『エスプレッソ豆知識』によれば、本当のエスプレッソは果実の薫り、そしてキャラメルの味わいなのだという。そんな優雅な飲み物に、ミルクや砂糖が必要だろうか」と続けているが、実はストレートで飲もうとするのは日本人くらいで、本場の人はシュガースプーンに一〜二杯の砂糖を入れ、それを一口で飲み干し、底に溜まった砂糖をスプーンですくって食べるらしい。それを知った僕は、これ見よがしにエスプレッソ・コーヒーを頼み、シュガースプーンにすくった砂糖をさらさらと流し込み、それを一口で飲み干し、底に溜まった砂糖をスプーンですくい、口に運ぶのである。対面に座っていた女の子が言う。
 「ええ、砂糖食べるの体に悪いよ」
 僕はふと彼女の顔を見上げながら言うのだった。
 「本場ではこうやって飲むんだよ」
 これがパリッとしたオリーブ色のスーツが似合う、長身のイケメンだったらいいのだが「スーツに着られている」と言われる、ぼーっとした顔つきと体型の、素敵レベル2の僕が言ったところで、それは無理をしているだけだ。僕はきっとこの先、何年かかっても、エスプレッソ・コーヒーを自分の生活の一部として溶け込ませることはできないのだろうし、僕は高校生のときと変わらず、素敵レベルは低いままなのである。


 では、そんな素敵レベル2の僕が飲んでいい飲み物とはなにか、それは伊藤園の「健康ミネラル麦茶」である。エスプレッソなどという、遠い異国の飲み物はどうやったって、日本の田舎で暮らす一般人の生活の中では浮いてしまうし、ミネラルウォーターを飲んでいても「お前ごときは公園の蛇口で水飲んどけや」となってしまう。それがペリエだったりなどしたら問題外である(余談だが、僕は昔「ミネラルウォーターを一本常に持ち歩いているのがかっこいい」と思っていて、毎日ミネラルウォーターを鞄に忍ばせていた)。そんな僕が、コンビニへ入って買っていい飲み物は「健康ミネラル麦茶」のみなのである。
 麦茶という存在がそもそも中流家庭の、一般的な日本人の生活にとても馴染んでいる。その上に、あのパッケージに印刷された笑福亭鶴瓶の顔がなんとも良い。僕のような人間を安心させるために、あの鶴瓶の顔はデザインされているのだろう。しかし、そんな素敵レベルの低い(=生活に馴染んでいる)ものが、急にそのレベルを上げることが稀にある。
 例えば、柿ピー。日本人なら誰もが一度は口にしたことのある、少し辛味のある醤油味の煎餅と、小気味良い塩味の効いたピーナッツが、ちょうど良い配分で混ざったあのお菓子である。素敵レベル2の僕でも、何も考えずに安心して口にすることのできるお菓子だが、とある日から、それはガラリと変わってしまった。日本における、素敵レベル唯一のカンストと言われている大作家、村上春樹が素敵雑誌「anan」で連載していた『村上ラヂオ』というエッセイで、柿ピーについて、こう語ったのである。

 世の中に永久運動は存在しない、というのは物理学の一般常識だけれど、半永久運動というか、「永久運動みたいなもの」は、けっこうある。たとえば柿ピーを食べること。
 柿ピーのことは知ってますよね?ぴりっと辛い柿の種と、ふっくら甘い香りのあるピーナッツが混じっていて、それをうまく配分し、組み合わせながら食べていく。誰が考えたのか知らないけど、よく思いついたよね。ちょっと普通では考えつかないとりあわせだ。考えついた人にノーベル平和賞をあげたいとまでは言えないけど( たとえ言っても相手にしてくれないだろうけど)、卓越したアイデアだと思う。
 柿の種が漫才でいう「つっこみ」なら、ピーナッツは「ぼけ」にあたるわけだけど、ピーナッツにはピーナッツの洞察があり、人柄があり、ただの頷き役では終わっていないというところがよい。柿の種のつっこみをさらっと受けて、鋭く切り返すこともある。柿の種はそのへんを承知の上で、自分の役割を意識的にいくぶん過剰に演じている。まことに絶妙のコンビというべきか、あうんの呼吸がとれている。
 だから、と言いわけするのではないけれど、ビールを飲みながら柿ピーを食べていると、きりがないですね。気がつくと一袋空になっていたりする。それにあわせて(喉が乾くから)ビールもついつい飲んでしまう。困ったものだ。こうなると、ダイエットも何もあったものではない。(中略)
 でも、柿ピーを食べるときには、僕は自分の内なる欲望をできる限り抑え、柿の種とピーナッツをなるべく公平に扱うように努めている。自分の中に半ば強制的に「柿ピー配分システム」を確立し、そのとくべつな制度(regime)の中に、偏屈でささやかな個人的喜びを見いだしているのである。世の中には甘いものと辛いものがあって、両者は互いに協力しあって生きているのだという世界観を、あらためて確認する。

 巧みなレトリックと、ウィットに富んだ、余裕のある文体で「柿ピー」が語られていく。村上春樹の文体を通すと、柿ピーがあたかも、高級なバーでしか口にすることのできない、外国の洒落たお菓子のように見えてくる。僕はこれを読んでから、自分の中の柿ピーのイメージが一気に変わってしまった。なんの変哲もないただの柿ピーに「あの村上春樹も好きな」という枕詞がついてしまったのだ。そのことによって、柿ピーは、ブラッディ・メアリーや、ダンキン・ドーナッツ、ステーキサンドイッチ、ウィーンのビーフカツレツと同列のものとして、存在してしまったのである。
 素敵レベルの高い人間が、好む、興味を示すだけで、それまで僕の手元にあったはずの柿ピーや健康ミネラル麦茶などが、離れてゆくということが往々にしてある。お洒落で私生活も派手そうな俳優が「実は家で一人で飲むのが好き」と語ったら、かっこよく見えてしまうからだ。志田未来が友達と鳥貴族に行っているとフライデーされてしまっただけで、どうしてもそこに対して、好感度を持たざるを得ないのだ。
 いつか、村上春樹は自身のエッセイの中で「健康ミネラル麦茶」のことを語るのだろう。「昔、ジョン・アーヴィングと一緒にセントラル・パークをランニングしていたとき、よく水筒に『健康ミネラル麦茶』を入れて持っていった」とか「あのパッケージにデザインされた鶴瓶の顔は、なんだか人を励ますような善意に満ち溢れている」とか、挙げ句の果てには「家で『健康ミネラル麦茶』を飲むときはいつも、コリンズグラスに氷を入れ、ウォッカと一緒に割って、最後にレモンを少し絞る」などという特殊な飲み方をしているかもしれない。
 村上春樹が「健康ミネラル麦茶」を語ったことによって、日本に「健康ミネラル麦茶」再評価の流れが来る。素敵コーヒーショップ、スターバックス伊藤園とコラボし「健康ミネラル麦茶・フラペチーノ」を発売する。女子高校生、大学生がこぞって飲み、インスタグラムにアップする。アメリカでは「Healthy Mugi Tea」の名でヒットし、シリコンバレーで働く一流企業の社員が、こぞってデスクにあのペットボトルを置く。最先端企業のデスクに並ぶ鶴瓶の顔。そして、インスタグラマーが白い壁をバックにあのペットボトルを持った写真を撮り、無数の鶴瓶の顔がタイムラインに流れてくる。どこを見ても、鶴瓶鶴瓶鶴瓶、笑瓶、鶴瓶
 「俺の健康ミネラル麦茶が......俺の鶴瓶が......俺の......俺の鶴瓶を返せ!返せ!」僕は渋谷のど真ん中で叫ぶ。その光景を目にし「健康ミネラル麦茶フラペチーノ」を飲みながら「なにあの人......ヤバ」とつぶやく女子大生。ギャル達。ふと、見上げると巨大なスクリーンに、パリコレのモデルを起用した「健康ミネラル麦茶」のCMが流れていた。もう、健康ミネラル麦茶は僕の知っている”健康ミネラル麦茶”ではなくなっていたのだ。
 「健康ミネラル麦茶」のペットボトルが、僕の手からするするとすべり落ちてゆく。そのパッケージでは、鶴瓶が不敵な笑みをこちらに覗かせていた。

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