百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

生活のゆくえ

 「アイドルの”生活”のこと、思いますよね」

 僕らの眼前に、ある種の非現実的な輝きをもって現れた、オレンジ色の東京タワーをにらみながら、彼は言った。

 「うーん、思うよね、それは」

 僕は言った。僕たちは夜の六本木を歩いていた。「夜の六本木を歩いている」と言えば、恰好よく聞こえるかもしれないが、そんなことはなく、僕たちはアイドルグループ、乃木坂46欅坂46の名前の由来となった、実際の「乃木坂」と「欅坂」を見にきたのだった。夜の港区はどこを見渡しても、高層ビルと光にあふれていて、生活感がなかった。僕たち二人は、六本木の夜景からとても浮いていた。

 アイドルもまた、夜の六本木のように「生活」の見えづらい存在だ。「アイドルはうんこをしない」という、昔からまことしやかに囁かれている噂が象徴しているように、アイドルというのは、浮世離れした、ファンタジーな存在として語られることが多い。今でこそ、アイドルの在り方が多様化したために「私、アイドルですけどうんこします!」と宣言するような、角度のついたアイドルも現れるようになったが、往々にして、アイドルになるというのは、生活感を失くしていく作業のように思う。穂村弘に、こんな短歌がある。

ライブっていうのは「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所なんです

 ここに描かれているような白昼夢のような感覚は、アイドルにとっても同じだと思う。だからこそ、アイドルの生活が見え隠れしたときに、こちらはドキリとする。「そうか、忘れていたけどアイドルにも生活があるんだ」と思う。けど、アイドルはうんこもするし、スーパーで「あ、醤油切れてたから買わなきゃ」と思う。そのことを思うと、すごい、と思う。誰もが平等に生活をこなしているのだ。星野源の「そして生活はつづく」というエッセイの中に、こんな一節がある。

 一見華やかな世界にいるように見える芸能人や、一見ものすごく暗い世界にいるように思える犯罪者だって、当たり前に生活をしている。その人のパブリックイメージと実際の生活は、必ずしも一致するとは限らない。

 たとえばアカデミー賞の授賞式。ファンの声援に応えながらレッドカーペットを歩いているスター俳優の家の炊飯ジャーでは、一昨日炊いて食べ残したご飯が黄色くなり始めているかもしれない。

 ある人気ロックバンドのギタリストが三万人の観客の前で素晴らしい演奏をしたその十時間前、彼は自宅のトイレで便器の黄ばみが取れなくて悩んでいたかもしれない。

 どんなに浮世離れした人でも、ご飯を食べるし選択もする。トイレ掃除だってする。シャワーカーテンが下のほうからどんどん黴びてきて、新しいの買ってこなきゃなあとか思う。一国の首相だって、たまたま入ったトイレのウォシュレットの勢いが強すぎてびっくりしたりする。どんなに凶悪な殺人犯だってご飯を美味しいと思う。どんなに頭のおかしい奴だって、一人暮らしならば家賃を払う。電気代を払う。水道代を払う。顔を洗う。

 たとえ戦争が起きたとしても、たとえ宝くじで二億円当たったとしても、たとえいきなり失業して破産してホームレスになってしまったとしても、非情な現実を目の当たりにしながら、人は淡々と生活を続けなければならない。

 全ての人に平等に課せられているものは、いずれ訪れる「死」と、それまで延々とつづく「生活」だけなのである。

 浮世離れした人、現実感のない人のことを、怖い存在だと思っていた。というよりも、自分があまりに生活感にあふれすぎた人間だったので、それをまったく感じさせない人がどういう日々を送っていて、何を食べて、何をして暮らしているのかが、自分にはまったく想像ができなかったのだ。例えば、原宿や表参道辺りを奇抜な恰好で歩く若者が、純和風な一軒家の実家に帰省して、鯖の味噌煮をつついている姿が想像できない。普通の皿ではなく、まないたに取っ手がついたみたいな謎の板に、生焼けみたいな肉をのせた洒落た料理をインスタグラムにアップするような人は、コンビニで飲み物を買うとき、鶴瓶がプリントされた「健康ミネラルむぎ茶」など選ばないのだろう。「私、常にペリエを持ち歩いてるので」とあの緑色の瓶を取り出しそうである。馬鹿にしているわけではない。

 そんな、華やかであったり、お洒落だったり、田舎の純和風な核家族の送る生活とは、かけ離れたような人たちを見て、言葉にできぬ感情を抱えていたのだが、星野源のこのエッセイの一節を読んで、それらがすべて言葉となって現れたような気がした。そしてそれは、今や国民的なスターとなった星野源が言うからこそ、説得力があった。

 以前、大好きなバンドのライブを見に行ったとき、そのバンドとはまた別の、好きなバンドの方がいて、たまたまお話をさせていただける機会があり、お酒を奢ってもらったことがあった。僕が好きなバンドや、アーティストの人たちは、みなお洒落で、生活感がない。どこか浮世離れしているような方ばかりだ。そういう人と話すとき、僕はまったく違う言語を話しているかのように、会話が噛み合ないんじゃないか、と思っていたのだが、その人はとても親身で話しやすい方だった。ライブ会場にいたお洒落な人たちや、バンドの人たちを見て「みんな、結局みんな人間だからね」と言っていた。その一言がとても印象的だった。どれだけ浮世離れしているような人でも、みんな日々の中で「トイレットペーパー無くなりそうだから買いに行かなきゃ」とか「今月の支払いしなきゃ」などと思ったりするんだな、と思うと急に距離が近くなったような気がした。

 ピースの又吉さんは、ライブなどで緊張した際、お客さんの足下を見るらしい。それぞれの、様々な靴を見て「この人達はみんな、同じように靴を買いに行った時があったんだな」と思うと安心するとのことだった。その感覚はとてもわかる、と思った。オードリー春日さんは、いまだに家賃二万五千円の風呂無しアパートに住み続けているが、その理由の一つとして「テレビ番組に出て、華やかな女優や俳優さんと仕事したあとに、家へ帰ってキッチンのシンクで頭を洗っているとゾクゾクする」らしい。

 僕の好きな、ZORNというラッパーは、入れ墨だらけで、浮世離れしたような雰囲気の、僕みたいな人間とは真逆のような存在だが、そこで歌われているのは、僕らが普段こなしているような、生活の風景である。僕はそんな「生活」の感覚を根底にもった表現が好きだ。

洗濯物干すのもHiphop

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