百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

カート・コバーンのポスター

 壁に貼られた、カート・コバーンのポスターが剥がれかけている。窓から吹き抜ける風に煽られ、隅に刺していた針が落ちたのだ。「あー、直さなきゃ」と思いながら、すでに数ヶ月が経った。直すのが面倒だったわけではない。毎日、毎日「あー、直さなきゃ」と思いながら、定位置のクッションに座り、パソコンの電源をつけ、テレビをつける。そうすると、もうポスターのことは意識の外に放り出されてしまう。直そうと思えば、立ち上がって針を刺し直すだけなのだから、数秒で終わってしまうような簡単な動作なのだが、僕はそれがなかなかできない。むしろ、長いこと剥がれかけているポスターを目にしていると、その光景のほうが自然というか日常的になってきてしまい、それを直すという行為は、日常性に亀裂をいれるようなものなんじゃないか、直したら逆によくないことが起こるんじゃないか、と思い始める。結局、直そうと思い立っても「このままにしておいたほうがいいな」とむりやり自分に言い訳をし、そのままにしてしまう。「逆にカート・コバーンのポスターは剥がれてた方がかっこいいかも」などとも思い始める。救いようがない馬鹿である。

 当たり前のように生活の風景の一部として存在している、カート・コバーンのポスターであるが、今の僕は彼の音楽をほとんど聞かなくなってしまったし、そのポスターを眺めていても、特に感慨はない。ほとんど、部屋の壁紙の模様と同じレベルまで、カート・コバーンが僕の生活に溶け込んでしまっているのだ。

 思えば、このポスターを買ったのは高校生の時だった。当時、彼のやっていた伝説的なバンド、ニルヴァーナが大好きだった僕は、カート・コバーンに影響されまくり、彼が使っているギターを買い、エフェクターを買い、あげくの果てには彼のトレードマークであった、モスグリーンのカーディガンを着て学校へ通っていた。それだけならただのイタいやつだが、高校に進学したばかりの僕は引きこもり生活から脱したばかりで、小太りに長髪、猫背という最悪なルックスだったので、誰がどう見てもヤバいやつだった。ほぼ、信仰に近い状態で、カート・コバーンのことが好きだった。そのあこがれが募り、近所のヴィレッジヴァンガードで、彼のポスターを二枚買い、部屋に飾った。

 思い返してみると、このポスターはもう7年近く貼られているわけだ。急に時の流れを感じてきた。楽しい日も、つらい日も、常に貼られていた、カート・コバーンのポスター。僕が三年間の片想いに破れ、家でギャン泣きしていた日も、カートはやさしく僕のことを見守っていてくれたのか、そう思うと急に愛着が沸いてきた。ありがとう、カート。

 「よし、決めた。今日こそは直そう」そう決意し、椅子の上に立ち、ポスターに手をかけた。ポスターは経年劣化で傷み、ボロボロになっていた。剥がれかけたポスターの裏には、日焼けを免れた綺麗な状態の壁紙が覗いていた。

 「このポスターを剥がさないと、僕は高校生の時をいつまでも引きずったまま、ずっと変わることができないんじゃないか」

 ふと、そう思った。カート・コバーンのポスターは僕の学生時代の象徴であり、常に僕の生活に存在していた、変わりのない日常性であった。僕は、自らの手でその日常性に亀裂を入れ、自分自身を変えるべきなんじゃないか。僕はもう過去には囚われない。そのためにはカート・コバーンのポスターを剥がさなきゃいけない。ありがとう、カート。そして、さよなら、カート。

 僕はポスターの針を一つずつ、慎重に抜いていった。体の力を失ったように、グタリと僕の体へもたれかかるポスター。おつかれ、カート。そう言葉をかけ、ポスターを壁から外す。ボロボロになったポスターを優しく丸め、棚の奥へしまう。ふと壁を見上げると、ぽかりと空いた白い壁が、ある種の違和感を持って僕の目に飛び込んできた。いつもそこにいたはずの、”彼”の姿はもうなかった。そのことが、急に怖くなってきた。

 そうだ、新しいポスターを貼ろう。これからの僕を象徴するポスター。僕にとっての、新しいカート・コバーン。それは誰だろうと、深く考える。二十二歳の僕にとってのカート・コバーン。ふと、頭の中に一人のシルエットが思い浮かぶ。そうだ、あの人しかいない。僕はすぐさま、新しいポスターを取り出し、椅子に立ち上がった。そして、それまでカート・コバーンがいたはずの壁に、そのポスターを丁寧に貼ってゆく。

 満足げに、壁を見上げると、乃木坂46生駒里奈さんが、やさしくこちらへ微笑みかけていた。

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