百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

昔日の風景

 本が好きだ。人前で”本好き”を自称するのは、なかなかに勇気のいることだが、大学も日本文学専攻だったし、ちゃんと読めているのかは置いといて、曲がりなりにも読み続けてはいる。本を読むようになったのは、小学生の頃からだ。ある日、母親が「一日中読んでしまうくらい面白い小説がある」と知り合いから聞いたらしく、『ダレン・シャン』という小説を買ってきた。『ダレン・シャン』は世界的に大流行した、イギリスの児童向けファンタジー小説で、バンパイアになってしまった少年を主人公とした、少しダークでミステリーな物語だ。この小説がとてもよくできていて、作品自体の構成であったり、伏線や展開など、”本を読む”ということの楽しさがつまっていて、かじりついて読んでいた。
 『ダレン・シャン』をきっかけとして、本を読む楽しさを知り、中学、高校では、太宰治村上春樹などの日本の純文学を読むようになった。太宰なんかは、よく言われているように、自分のことが書かれているような感じがあって、それがただただ面白かったし、安心するところがあって読んでいた。一方で、安部公房や三島、大岡昇平みたいな、第二次戦後派の硬質な文学を読んで、よくわからないし難しいなあ、と思いながらも、自分なりに読んで面白さを見出そうともした。本を読むのは単純に面白いから、というのもあったが、気本的に家に引きこもっていたので、暇つぶしというか、なにもすることがないので読んでいる、という部分もあった。うちの親は、小説であればいつも買い与えてくれたので、それも影響した。
 高校に入ってからは古本屋に通い、自分で本を買うようになった。お金もなくて、友達もいない人間にとって、本は安いし、時間をつぶせるし、役に立つし、都合がよかった。古本屋で、自分のほしかった本を見つけたときのよろこびは、とても大きかった。あ行から順に並べられた作家の名前を最後まで辿り、読みたかったものから、どこかで目にしたもの、タイトルが気になるものなど、一つ一つの本を手にとっている時間がとても楽しかった。読みたかった本が百円で売っていると、この上なく嬉しくて、際限なく買ってしまう。この癖はいまだに続いていて、もはや本を読む気持ち良さよりも、読みたい本を安く買うという気持ち良さが先走り、僕の部屋には未読の本が何十冊もたまっている。
 先に、”古本屋”と書いたが、僕が行っていたのはブックオフのことだ。ちょうど本を読み始めたくらいのときに、駅前にブックオフができたので、それも影響して本を買うようになった。しかし、地元は寂れた街なので、品揃えの回転率が悪く、一通り読みたい本を買ってしまうと、ほしい本がなくなってしまった。しかし、いわゆる個人でやっているような古本屋には、なかなか行けなかった。頑固で無口な店主が奥に鎮座していて、一見さんはお断りで、本一つ買うのにもセンスが問われそうなイメージがあったからだ。そんな、昔ながらの古本屋に、ずっとあこがれを抱いていた。
 大学に入り、相も変わらずそんなあこがれを持ったまま、一冊の本に出会った。それが、関口良雄の『昔日の客』という作品だ。これは昭和三、四十年代にあった、東京の有名な古本屋「山王書房」の店主である関口良雄のエッセイで、山王書房を訪れたお客さんや、様々な作家との交流が描かれている。この本は絶版になっていて、国立国会図書館などでしか読むことができなかったが、二⚪︎一⚪︎年に、夏葉社という出版社によって、復刊された。この夏葉社は、島田潤一郎さんという方が吉祥寺で、一人でやられている出版社で、僕はここが出している本が好きで、ずっと買い集めている。一冊一冊が丁寧に作られていて、装丁から文章のフォントや配列まで、すべてがうつくしい本を作る出版社だ。
 『昔日の客』は、店主の関口さんの、”本”を通した様々な人々との関係が描かれていて、それらはすべて優しくて、あたたかいし、人情味にあふれている。例えば、こんな話がある。

 夕暮れ時、二人の女学生が入って来た。三好達治の詩集を見つけると、二人は小声でヒソヒソと話していたが、お金が足りないらしい。背を向けてノートにかかった。私は声をかけた。二人はビクッとしてこちらを見た。本をこちらへ持って来なさいと、私はやさしく声をかけた。
 私は好きだという詩を二、三篇大きく書いて渡してやった。

 

 「あなたは夏目漱石を知っていますか」「知りません」「芥川龍之介を知っていますか」「知りません」。
 私は古本屋で仕入れた本を、車をひろって積み込み、家に帰る途中だった。運転手さんは、人の好さそうな体つきのがっちりとした若者だった。「それじゃあ、太宰治は」「知りません」。無論、上林暁尾崎一雄の名も知らなかった。(中略)
 若者は、東京に出てから三年になるが、つくづく東京というところがいやになった、この秋までには、きれいな川や山の見える田舎へ帰り、親のやっている果樹園を手伝うことに決めたと言っていた。
 私は話を聞いているうちに、若者の無知を軽蔑するどころか、すがすがしい気持ちになり、立派だと思った。
 若者よ、君は本を苦手だと言い、本を読まない事をはじていたね。そんなこと、少しもはじる事はないんだ。君の心は、この濁った東京に住んで、少しも汚れなかったではないか。都会には、本を読んでも精神の腐ったのが、ウヨウヨしている。
 もう柿も色づいたことだろう。林檎はその赤い実を、枝もたわわに実らせたことだろう。
 私には、秋の陽を浴びて立つ、若者の面ざしが目に浮かんで来る。

 お金がなくて詩集を買えない女学生に、詩を書いて渡してあげる関口さんも、お金がないから、とこっそりノートに詩を書き写そうとする女学生も、どちらも今ではもう見かけないような、素敵なやりとりだ。もし、これを現代に置き換えたとき、ブックオフで好きな詩集を買えなくて、なにかに書き写そうとしても、スマホでぽちぽちと打っていれば、店員にバレることはないだろうし、こんなやりとりも生まれないだろう。関口さんは、本をまったく読まない若者にも、あたたかな眼差しを向けている。たまたま知り合った運転手との、何気ない会話の中で、若者の行く末を思う。この『昔日の客』で描かれているのは、古本好きや文学好きしか楽しめないような、堅苦しいものではなく、人と人との関係を丁寧に描いた、うつくしくて優しい光景なのだ。
 芥川賞作家である、野呂邦暢も、かつて「山王書房」に通った”昔日の客”の一人であった。彼は青年時代、日に一度は必ず訪れ、時には二度訪れることもあったが、買うことはまれで、買ったとしても、値下げされた本ばかりだったらしい。そんな彼を、関口さんは「うちも商売でやっているから」と叱ったことがあった。ある日、彼は『ブールデルの彫刻作品集』をレジに持ってきた。その本は千五百円の値がついていたが、家の事情で東京を離れること、旅費や部屋代のことを考えると千円しか出せない、と切り出すと、関口さんは「それなら千円で結構です」といい、それ以上は受け取らなかった。そして、店を後にする野呂にエールを送ったのだという。それからしばらくして、野呂は芥川賞を取り、久々に「山王書房」を訪れる。その時に、「僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんに贈りたい」と、作品集を贈り、その見返しには、達筆な字で、「昔日の客より感謝をもって 野呂邦暢」という言葉があった。できすぎた小説のように、うつくしい話だ。しかし、本は時として人と人との間に、こういった奇跡を起こすらしい。
 この『昔日の客』を夏葉社が復刊させたとき、一昨年『火花』で芥川賞をとったピースの又吉直樹が、たまたま手にし、とあるラジオでオススメの本として紹介した。又吉さん自身、古本が好きで、なにより本に対する愛情があふれた『昔日の客』の装丁や内容に惹かれたそうだ。その数週間後、又吉さんが下北沢のとある古書店に入り、『昔日の客』と似た本を見つけ手にとると、それが『昔日の客』と同じ夏葉社が出版している上林暁の『星を撒いた街』だと知り、それをレジへ持っていくと、その古本屋の店主が「夏葉社の者から、この本は又吉さんが来たらお代はいらないって言われてるんで」と受け取らなかったらしい。その話は、その下北沢の一店舗にしてなかったらしく、まさに『昔日の客』の関口さんと野呂のようなことが、現実に起こったのである。
 一昨年の夏、京都にある父親の実家へ、観光も兼ねて行ったことがあった。叔父とその子供、そして父親と僕の四人で、京都のお寺や観光名所を回ろうということになり、叔父の運転で銀閣寺へ向かっていると、途中で見覚えのある佇まいをした、小さな古本屋を見かけた。すぐに、又吉さんが雑誌で紹介していた有名な古本屋さんだったことに気付き、車を停めてもらってそのお店へ入った。善行堂というお店だった。その時、生まれて初めて個人経営の古本屋へ入った。
 店内はジャズがかかっていて、奥で雰囲気のある女性が一人で店番をしていた。少し緊張しながら、本棚へ目を向けると、どこを見渡しても魅力的な本ばかりで、夢中になった。父親や叔父を待たせていることもあって、慌てて本を選び、吉行淳之介の短編集や、川崎長太郎の作品集などを手に取った。値段も都内の店舗で買うよりもずっと良心的だった。それらをレジへ持っていく途中、とある本の装丁が、ふと目に入った。それは新刊の本で、抽象的に描かれた都市の夜景が印象的な作品だった。普段なら、新刊の単行本などあまり買わないのだが、どうしてもその装丁とタイトルに惹かれて、手に取った。
 それらをレジへ持っていくと、店番をしていた女性に「いつもなら店主がいるんですけど、今日は古本市に出ていて......すみません」と話しかけられた。善行堂の店主である山本善行さんは”古本ソムリエ”として有名な方で、夏葉社の『昔日の客』復刊のきっかけだったり、『星を撒いた街』の編集に携わった人だった。僕は東京から来たこと、又吉直樹さんの紹介で知ったこと、本が好きなことを伝えると「あなたみたいな若い方が吉行や川崎長太郎を読んでいると知ったら、主人がよろこぶのであとで話しておきますね」と言われた。初めて入った古本屋は、とても優しくてあたたかく、人情にあふれた場所だった。それまでの古本屋に対する偏見は、なにもなくなった。
 東京へ戻り、善行堂で買った、あの新刊の本を読んだ。そこには、当時、僕が本に求めていたことが、すべて書かれていた。中学生の時に太宰治を初めて読んだのと、同じ感覚があった。一読して、その作家に魅了された。やがて大学四年生になり、僕はその時買った、その本で卒業論文を書いた。後に調べてみると、その本は、絶版どころか一度も刊行されなかったもので、その作家の熱烈なファンが五十年の時を経て、初めて刊行された作品らしい。そして、それは個人で作られたものだったので、都内の大型書店にもあまり置いておらず、限られた古書店や小さな書店でしか買えない本だった。野呂さんや又吉さんほどではないが、僕自身、本を通して小さな奇跡が起こったのだ。その本は、僕の人生を象徴するような一冊になった。
 大型書店や、インターネットの書店が台頭し、小さな古本屋さんはどんどんと無くなってしまう現代だが、このような奇跡が起こるのは、そんな古本屋さんへ足を運んだときだけだ。人情味にあふれていて、優しい、今では失われつつある昔日の風景を、僕は確かにこの目で見た。

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