百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

『雪沼とその周辺』について

 以前、ブログで江國香織の『とるにたらないものもの』というエッセイ集のことを書いた。

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 このエッセイ集では「緑いろの信号」「フレンチトースト」「輪ゴム」「干しブドウの味」のような様々な、とるにたらないけど、欠かせないもの、忘れられないものたちが、江國香織の目線を通して語られている。その中の一つに「レモンしぼり器」というものがある。

 それは何の変哲もないガラスのレモンしぼり器で、でも祖母の宝物だった。母の母である祖母はずっと私たち家族と住んでいて、私が子供のころはよく遊んでくれていた。一緒に遊びにいく友達がいるでもなく、一人で遊びにでかけるでもなく、一日中うちにいて、畳にお茶がらをまいて掃除をしたり、煙草をすったり、テレビで相撲や野球をみたりばかりしていた祖母は、格好の遊び相手だった。
 レモンしぼり器は、昔、男に贈られたものだそうだ。遠い昔に、祖母と恋におちた男。何という名前の人か、私は何も知らない。
 私の知る限り、祖母の宝物はそのレモンしぼり一つで、他に例えば装身具などは全然持っていなかった。洋行みやげだというその小さなガラス製品が、その男の唯一の形見らしかった。
 祖母はそれをとても大事にしていた。とてもいとおしそうに扱った。祖母がそれでしぼるのは、レモンではなくみかんだった。
 オレンジエードと呼んでいた。冬、祖母はよくそれを作ってくれた。みかん一つを横に半分に切り、しぼる。それをコップに入れ、お砂糖を入れ、そこに熱いお湯をさす。うす甘い、ぼんやりとした味ののみものだった。でも身体があたたまり、みかんのやさしい匂いがした。
 父も母も、祖母のオレンジエードはのまなかった。理由を訊くと、父は困ったように、好きじゃないんだ、と言い、母は、だってうすくて不味いじゃないの、あなたよくのむわねえ、と言った。そのオレンジエードは、でも私の味覚には大変に合い、作ってほしいとしょっちゅう祖母にねだった。大きくなり、祖母と遊ばなくなってからは自分で作った。中学生のとき、仲のいい友達に作ってあげたところ、彼女の味覚には合わなかったようだ。その後いつのまにかなんとなく、私もそれをのまなくなった。

 「何の変哲もないガラスのレモンしぼり器」という「とるにたらないもの」一つが、不思議な詩情と存在感をもって存在している。祖母の昔の恋人は、恋人である祖母へのプレゼントに「ガラスのレモンしぼり器」を贈るような男性であり、その情報だけで、名前も知らないその男性が、洒脱で素敵な人であったことがわかる。そして、その「レモンしぼり器」を大切に持っていた祖母は、その男性を深く愛していて、別れたあともその時のことを大切に胸に秘めていた、ということが伝わる。それは時を経て、「みかん」をしぼって作られた「オレンジエード」を孫に振る舞うための道具として使われ、父も母も飲まないオレンジエードを好んで飲んでいた江國自身と、祖母との関係性も、その「レモンしぼり器」によってまるで一つの作品のように、物語を生み出されている。
 この話はエッセイだが、江國香織の小説にも、この「レモンしぼり器」のような、「とるにたらないものもの」が登場し、それらは物語の中で、言葉にならない感情を表現したり、情景を浮かばせたりさせるための”装置”のような役割も果たしている。そして、それは江國香織の作品世界の魅力でもあるのだが、同じように、そういった「もの」たちが大きな役割を果たしている小説がある。それが、堀江敏幸という作家の、『雪沼とその周辺』という短編集だ。
 これは、「雪沼」という架空の街を舞台にした七編の短編による連作小説で、そこで暮らす人々を描いた作品だ。先にも説明した通り、この『雪沼とその周辺』には、すべての話に物語の”装置”とも言えるような「もの」が登場する。それは「スタンス・ドット」ではピンボール台や、ボーリングの球やピン、「送り火」では古びたランプ、「レンガを積む」ではレコードなど、どれも「とるにたらないものもの」だ。この「もの」たちが小説の中でとても不思議な輝きを持っていて、それが作品の大きな魅力になっている。しかし、その輝きというのは、買ったばかりの新品の車のようにピカピカと輝いているわけではない。ずっと昔から使ってきた古い道具を、丁寧に丁寧に磨いたような、そんな輝きを持っている。
 七編の短編の中でも、僕が特に好きなのが「イラクサの庭」という話だ。これは、東京から一人「雪沼」に出てきて、小さな料理教室「イラクサの庭」を開いていた小留知(オルチ)という女性の話で、彼女が亡くなる寸前に教え子に残した、最後の言葉である「コリザ」という聞きなれない言葉を元に、オルチさんの過去、人生や人柄を遡っていく、という話だ。タイトルにもなっている「イラクサ」というのはポタージュやジャムの材料としてフランスで使われている植物のことで、フランス語訳の「Ortie」がそのまま、「オルチ」と読めることから、小留知先生が好んで使っていた材料であった。そして、そのイラクサを使った料理に隠し味として「氷砂糖」を使っていたことを、あるとき、教え子である実山が気づく。オルチ先生との過去を振り返り、三十年近い付き合いの中で、「先生の眼に涙が浮かぶのを一度だけ見たことがあった」ことを思い出す。
 先生が若い頃、わけあって生まれた子供を施設に預けざるを得なかった知り合いに頼まれて、遠い親族のフリをしてその子が今、どのように成長して、どうしているのか見に行ってほしいと頼まれたことがあった。責任者に事情を話すと、目の前に六つになる、「つぎはぎだらけの服を着た男の子」が現れる。

おばさんはあなたの遠い親戚です、元気でやってるかどうか確かめに来たんですよ、と言うと、その子はなにも応えずにじっと先生を見つめてポケットから手を出し、これ、あげる、と透きとおった石のようなものをくれた。それが、なんだったと思う、実山さん?前日に慰問に来たどこかの社長さんからの差し入れの、氷砂糖だったのよ、わかる?いまじゃあ考えられないくらい大事な大事な、氷砂糖だったの

 オルチ先生は、「果実酒に用立てるくらいで一般にはあまり料理に使わないあの半透明のかたまり」である氷砂糖を、好んで使っていた。イラクサのスープにも、それは用いられていた。

「先生が最後に言おうとしたのは、コリザではなく、コオリザトウだったのではなかったろうか」

 それに気づいたとき、もしかしたら先生から聞いたあの話の、「わけあって生まれた子供を施設に預けざるを得なかった知り合い」というのは先生自身だったのではないだろうか、と気づく。それはただの思いつきにすぎないが、もしかしたら、先生は「その子を、本当はびしょ濡れになっても連れて帰りたかったのではあるまいか」と思う。そしてその発見を、別に教え子に伝えようと言いかけたとき、それまで降っていた雨が止み、部屋のロールカーテンの奥がうっすらと明るむ、というところで物語は終わる。
 あまりにもうつくしい物語である。作品自体に詩情があふれていて、読んだあとには、まさに氷砂糖を口にふくんでゆっくりととかしているような、やわらかい甘さが残る。まるで自分も雪沼に住む住人であるかのような、不思議な感覚をもたらされる。雪沼という町は、どこか静謐で、昔の空気や名残がある空間として描かれていて、架空の町でありながら、現実と非現実の境目のような、そんな場所である。堀江敏幸の小説は、現実や非現実、現在と過去、はたまたエッセイと小説であったり、詩と物語であったり、様々な二項対立をとかしてゆく。そして、それが彼の小説の一番の魅力であると思う。
 普段、何気なく使っていたり、いなかったり、あったり、なかったりする、とりとめもない「もの」に、個人の記憶や情景、物語が深く結びついているのだ。高校生のとき、片思いしていた女の子に誕生日プレゼントで紅茶の詰め合わせをもらったことがあった。その時、僕はその女の子にフラれていて、複雑な思いでそれを受け取ったのだが、そのプレゼントが紅茶だったことで、僕がその女の子に惹かれていた理由が、普段、紅茶を嗜んでいそうな素敵な女の子だったから、ということを改めて思わされたことがあった。その子からのプレゼントには、その子がとても強く現れていた。その紅茶はどこかもったいなくて、うまく飲めなかった。
 以前にも書いた、美術の先生にもらったブローチもそうだ。「もの」そのものに、その人の物語や過去や歴史がある。日々の生活のなかで、忘れ去られていくようなこと、むりやりそのなかに埋没するしかない、深い喪失感や孤独のようなものを、この作品では「もの」や「道具」という装置を使って、浮かび上がらせている。その目線はとてもあたたかくて、静謐で、うつくしいものだ。『雪沼とその周辺』を読んだとき、自分もそんな目線を持っていたいと、思った。

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