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百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

FMヨコハマとせきしろ

 「いや、FM横浜か!」

 この間、バンドメンバーと共に渋谷を歩いていたら、突然こんな言葉が耳に飛び込んできた。路上で、男女数人のグループとすれ違ったときに、それは聞こえてきて、男性が誰かの発言に対して、突っ込むように上の言葉を投げかけていた。普段なら他人の会話など気にも留めないのだが、ツッコミの喩えとして出された”FM横浜”というワードに、頭の中が疑問符でいっぱいになった。一体、その前後にはどういった会話の流れがあって、どういった経緯で「いや、それFM横浜か!」というツッコミが飛び出したのだろう。

 あの若者たちは、大学の「ラジオ大好きサークル」に所属していて、軽音楽サークルの学生が「いや、メガネにテレキャスて、向井秀徳かい!」とでも言うように、国文学専攻の生徒が「いや昼食がステーキサンドイッチにドーナツって村上春樹じゃないんだから!」とでも言うように、”FM横浜”というのは「ラジオ大好き業界」からしたら、向井秀徳村上春樹くらいの、イジられる幅を持った存在なのかもしれない。あの内の一人がやたらと人に音楽を聴かせたがる奴で、「ほら、これ最近見つけたんだけどめっちゃ良いんだよ」「いや、お前すぐ音楽流したがるな、FM横浜か!」という流れだったのだろうか。はたまた、あの印象的なFM横浜ロゴマーク北斎富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」がデザインされたTシャツを着ていた者がいて、「いや、そのTシャツ、FM横浜か!」という流れだったのかもしれない。あの唐突に飛び込んできた一言は、そんなしょうもない妄想をさせられるほどの威力があった。

 せきしろの「去年ルノアールで」は、そんな妄想と現実の間をゆらゆらと漂っているような、独特なエッセイ集だ。喫茶店ルノアールで、店や客の様子を窺いながら、勝手な妄想を繰り広げていく。無気力で、体の力が抜けるような、脱力した作品だ。この作品はまだ今ほど有名じゃなかった時に、星野源が主演でドラマ化しており、本は読んでなくても、ドラマは見たことがある、という人もいるかもしれない。僕は先にドラマの方で知ったのだが、今見返すと、主人公は星野源だし、バナナマン南海キャンディーズ、ハマケンにスチャダラのANI、クハラカズユキなんかも出ていて、サブカル好きからしたらそうそうたる面子だ。

 このドラマ版のロケ地として使われている、ルノアール田端東店がまたなんとも良くて、昭和の面影を強く残しながら、カフェとも喫茶店ともつかないような、独特な雰囲気が漂っている。僕はまだドラマを見るまでルノアールに行ったことが無くて、去年、大学の友達と初めて行った。僕が行ったのは池袋東口店だったが、あの「カフェというのには垢抜けないし、喫茶店と呼ぶには多目的すぎる」という文句通り、不思議な雰囲気が漂っていた。店内はとても静かで、パソコンで作業をしたり小声で話している人たちがいたり、確かに妄想が膨らんでいきそうな余白のあるお店だった。残念なことに、ルノアール田端東店はドラマで使われてから少しして、閉店してしまったらしい。

 「去年ルノアールで」を知ってから、せきしろさんの本を読むようになった。せきしろさん自身、元々ハガキ職人から作家になっていたりして、お笑い芸人との親和性が高く、ピース又吉直樹との共著、「まさかジープで来るとは」「カキフライが無いなら来なかった」や、バッファロー吾郎Aとの共著、「煩悩短編小説」などを出しており、どれもせきしろさんの独特の目線と言語感覚が現れていて、面白い。その中でも、僕が特に好きなのが、せきしろさんの単著である、「逡巡」という作品だ。

 「逡巡」はせきしろさんらしい、現実とも妄想ともつかない、エッセイでもショートショートでもない、純文学とも大衆小説とも言えない、不思議な作品集だ。明らかに作ったような話もあれば、せきしろさんの故郷である北海道の風土が見えるような、私小説的なところもあって、一概にカテゴライズすることができない。笑えるし、泣けるし、考えさせられるものもあるし、何も考えずに読めるものもあるし、二分化されたものの境が溶けていくような、不思議な読後感が残る。

 僕が一番好きだったのは、「涙」という話だ。わずか2ページと数行のとても短いもので、かいつまんで説明すると、病弱で寝込みがちな祖母の元へ、大好きなコスモスを渡しにいく少年の話だ。ある日、いつもと同じようにコスモスを手に祖母のいる寝室へ向かうと、そこにはすでに亡くなった祖母の姿があり、最後に「起きて」と少年が必死に体を揺する、という、ある種ありきたりとも言えるような展開の話なのだが、そこからのオチがすごい。なんと、この話は全部「私」の想像で、かなしい話を想像することによって流れ落ちた涙で、かつての雪舟のように、鼠の絵を書く、という話だった。やがて”涙”が足りなくなったことによって、「私」は新たなかなしい話を想像し出す。

 むちゃくちゃな話のようだが、僕にはこのオチがとても響いた。僕が幼い頃、母親にこっぴどく叱られて、椅子の上で、体育座りになり、顔を足と足の間に挟みながら号泣していたときに、僕はかなしいとかつらい、という気持ちよりも、いかに涙をうまいこと椅子の上に落として、図形を描けるか、という意味不明な挑戦に真剣になっていた。昔から、号泣することはあっても、少ししたら「なんで泣いてるんだろう」と、ふと冷静になり、真顔になる、ということがよくあった。そして、その感覚が、自分にしかない、変なものである、という自覚があったから、「涙」で同じような感覚を持った人間が登場したことに、とても驚いた。

 「涙」の「私」は、かなしいという感情よりも、いかに流れ落ちた涙で綺麗な「鼠の絵」が書けるか、という行動に真剣になっているが、これは人間のふざけた行為に見えて、実は自分を客体化し過ぎて、己の感情さえも主観的になれない、というかなしみが描かれている、と思った。せきしろさんの著書のすごさはここにあって、無茶くちゃなギャグや、予定調和でオトすこともあれば、誰が読んでもふざけている物語の時もあるのに、どこかすべて”死”のイメージや雰囲気が漂っていて、「志賀直哉のような新古典小説」という一見揶揄ともとれるようなポップも、うなずけるところがあり、不思議な文学性を保っているのだ。

 「逡巡」はとあるインターネットの古書店で買ったのだが、表紙を開くと、「謹呈 著者」という紙が一枚挟まれていた。これは古本を買うとよくあることで、著者が関係者や知人に贈った本が、そのまま古本屋に売り飛ばされ、次の消費者の手にそのまま渡る、というケースだ。「謹呈 著者」と書かれたその紙を一枚抜き取ってゴミ箱に捨てるだけで、そのかなしみは減るのに、何も考えずに売り飛ばす人が、大勢いるのだ。そんな、”逡巡”しない人間に贈られた「逡巡」を手に取って、僕はなんだかかなしい気持ちになってしまった。

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