百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

樋口一葉『たけくらべ』について

 電車に乗っているサラリーマンの顔を見て、ふと、その人の子供時代の顔つきを想像することがよくある。今の顔つきから連想するのではなく、「小さい頃は、こんな感じだったんだろうな」という映像がぱっと浮かんでは消える。子供の頃の面影のようなものが残っているというか、想像しやすい顔つきの人がいるのだ。それはサラリーマンに限ったことではなく、繁華街を歩いていてすれ違った、派手な恰好をした水商売風の女性だったり、バンドマン風の青年だったり、近くのコンビニの店員を見ても思う。そして、彼らがみな、僕と同じように幼い時代があり、九年間の義務教育を終えている、という至極当たり前の事実に、いつも驚かされる。スーパーでレジを打っているあの青年も、風俗で働いているあの女性も、企業戦士として働くあの男性も、昼間から酒場で酒をあおるおじさんにも、平等に”幼い頃”があったのだ。

 樋口一葉の『たけくらべ』は、そんな”幼い頃”を過ごす少年少女達を描いた作品だ。樋口一葉とは、誰もが知っているであろう五千円札の”あの人”だが、何をしている人で、どんなことを成し遂げたのか、知らない人が多い。彼女は明治に活躍した作家で、わずか二十四歳で亡くなるまで、『たけくらべ』や『にごりえ』など、数々の名作を発表し、日本の近代文学史に多大な功績を残した人物だ。(途中、主人公の美登利が大人しくなる理由を、初潮を迎えたからとしていた文壇に対して、初の女性文学者であった佐多稲子が初店説を唱えるなど、文壇にとっても大きな影響を及ぼした作品であった)『たけくらべ』は雅文体という文体で書かれた小説で、平安時代の言葉遣いで全篇通して書かれており、会話文と地の文が混ざり合っていたり、現代人からすれば”読みにくい”と言える小説だが、その雅文体が生み出す独特な日本語のうつくしさとリズム感が、『たけくらべ』の魅力を支えている。

 この『たけくらべ』は、明治時代の吉原の周辺の世界が描かれた小説で、遊女を姉に持つ少女、美登利と、僧侶の息子である信如の淡い恋を中心として、”吉原”という異質な環境で育つ、子供たちの生活とその心理を描いた作品だ。日本の古典文学に影響を受けた、四季折々の描写と、それに伴って描かれる美登利と信如の揺れる恋心が、うつくしい言葉で織りなされており、それがこの小説の一番の魅力とも言える。例えば、こんな一節がある。

信如は今ぞ淋しう見かへれば、紅入り友仙の雨にぬれて、紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる

 使いを頼まれた信如が、激しい雨に打たれて、美登利の住む大黒屋の門前で下駄の鼻緒を切ってしまう。硝子ごしにその様子を眺めていた美登利は、相手が信如だということに気づかず、「友仙ちりめんの切れ端」を持って庭に駆け出す。美登利と信如は、お互いのことを思っていながら、ある誤解から疎遠になっていた。美登利は鼻緒を切ったのが信如であると気づくと、なにも言えずに立ち止まる。信如としても、これから自分が僧侶になる身として、異性を自らに近づけるわけにはいかない。やがて、美登利は母に呼ばれると、格子から何も言わずに「友仙」を投げ出す。そして上に引用したように、信如が後ろを振り返ると、その投げ出された「紅色の友仙」が雨に打たれて濡れている。

 ため息をついてしまうくらい、うつくしいシーンだ。日本人的な感性というか、「雨に濡れた紅入り友仙」という一つの小道具が、二人の揺れ動く恋心と、曖昧な感情を描き出している。美登利は、遊女の姉を持ち、”吉原”という環境の中で、自らもその道に進まざるを得ない、という運命を背負わされている。信如もまた美登利と同じように、僧侶の息子として生まれ、僧侶を目指すようになる。信如の父は、生臭坊主とでもいうような、欲にまみれた人間で、そんな父を信如は嫌い、”清く正しく生きよう”と志す。この、信如の強い意志のようなものに、僕は自分をとても重ねてしまった。

 清く正しく生きていきたい、と思う。人に迷惑をかけず、欲にとらわれず、子供のような無垢な心でありたい、と思う。しかし、それは不可能なことだ。ある日、子供同士の喧嘩に巻き込まれて、「遊女にはこれがお似合いだ」と、美登利は顔に泥のついた草履を投げつけられる。そして、その喧嘩の黒幕には信如がいる、と勝手に吹聴されたことにより、二人の間に誤解が生まれる。この事件で信如は、いくら自分が清く美しく生きようと思っても、”汚い”人間であると思われてしまうことは、避けることができないことを自覚する。これは明治のある少年の心理を描いているようで、僕の心にもとても突き刺さった。どんなに清く生きようとしても、それは不可能に近いことだ。それは明治の”吉原”という異質な環境で語られることではなく、現代の日本の社会にも言えることなのだ。

 物語の一番重要なシーンであった、「紅色の友仙」のシーンと対になるように、ラストシーンには「水仙の造花」が登場する。

龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも、美登利は絶えて聞かざりき。

有し意地をば其ままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有りけるに、或る霜の朝、水仙の作り花を格子門の外より差し入れ置きし者の有りけり。

誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて、違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞く其明けの日は、信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。

 

 ある日、美登利は風の噂で、信如がいよいよ修行の道へ進んだことを知る。すると、ある朝玄関に、水仙の造花が差し入れてあった。誰がこんなことをしたのか、美登利にはわからなかったが、その造花はどこか「懐かしい」雰囲気があり、その清き姿を、美登利はめでる。

 作中では余白を残して語られているが、水仙の造花を差し入れたのは信如であろう。「紅色の友仙」の対となるように、真っ白な水仙の造花を信如は差し入れた。赤と白という日本らしい対の色が、見事に映えている。そして、その水仙は”造花”でなければならなかった。造花であるからこそ、それが”嘘”や”偽物”でも、信如がそうあろうとした清くうつくしい姿が象徴されるし、二人の淡い恋も、永遠性をもって暗示されるのだ。(余談ですが、第9地区という映画でも、ラストシーン、エイリアンに感染した主人公が差し入れたのは鉄で作った造花で、『たけくらべ』に似たようなうつくしさを感じる)

 本物の水仙のようには清く、うつくしくはなれないが、水仙の造り花のように、それが”嘘”であってもうつくしく生きていきたいと、僕は『たけくらべ』を読んで強く思った。