百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

江國香織と『薄荷糖の降るところ』

 幼い頃、がらくたを集めるのが好きだった。がらくたというのは、”生きていく上で必要のないもの”だ。それはいったいどういったものかというと、例えば宝石の原石であったり、動植物の化石、遠い異国の砂漠の砂、ラムネの中に入っていたビー玉、小さな隕石のかけらなどだ。要は子供が無意識にほしがるような、キラキラしていて透明な石や、ロマンを感じさせるようなものが好きで、よく川原に、父親と妹と一緒に水晶の原石を拾いにいったり(これがまたたくさん落ちてるんです)、植物園や博物館に行っては、化石や隕石の小さなかけらを買ってもらえるよう、ねだっていた。自分の想像の範疇を超えたような、長い時間の流れや、遠い異国の地を思わせるようなものが好きだった。
 僕の大好きな、寺山修司の『寺山修司少女詩集』という詩集の中には、こんな詩がある。

財産目録

子供の頃 私は自分が海賊だと思っていた
海賊であるからには 略奪品がなければならない
そこで 私は空想の海へ船出しては
ビー玉 錆びたナイフ
表紙のとれたマーク・トゥエンの本
かじりかけのリンゴ 曲がった釘などを
略奪してきて 私の「財産目録」を作った
恋している女の子の「財産目録」とは一体どんなものだろうか?
それは たとえば 日曜日のクリニアンクールののみの市のように
売り買いしたり
交換できたりしたらいいのに

 

 「ビー玉」や「曲がった釘」など、寺山を印象つけるような言葉が並べられているが、一つ一つのアイテムの並べ方に、詩情を感じる。また、それらで作られた「財産目録」と、恋している女の子の「財産目録」を、「日曜日のクリニアンクールののみの市」のように売り買いしたり、交換できたらいいのに、というところに、寺山らしい、どこかキュートで、瑞々しい感性を思わせる。ビー玉や、化石、遠いどこかの砂漠の砂などは、人間が生きていく上で必要のないものだし、役に立たないものだ。しかし、その役に立たないものが、いまだに僕は好きだ。
 江國香織の小説には、そんな”がらくた”がたくさん登場する。特にそれを象徴しているのが『とるにたらないものもの』というエッセイ集だ。このエッセイ集は、日常の中で、特に注目して目を向けることのないもの、無駄なもの、あってもなくても支障はないものたちに一つ一つ目を向け、そのこだわりや愛情を記したものだ。それは「緑いろの信号」から始まって、レモンしぼり器や輪ゴム、石鹸や、干しブドウの味、など様々なものがある。

「信号の緑は青みがかった緑だが、たまに青くない緑の信号がある。歩行者用の信号ではなく、三色の、車用の信号のなかにある。そういう信号の信号機はたいてい古ぼけているので、たぶん、型の古いものなのだろう。すこし舐めて小さくなった飴玉のような、浅い感じの緑だ。私はその緑の信号が好きで、ときどきとても見たくなる。」(緑いろの信号)

 

「石けんを水やお湯で濡らし、両手で包んでするすると転がす。そのときの、手の中で石けんのすべる感触には、ほとんど官能的なまでの愛らしさがあると思う。それがみるみる泡立って、泡が空気を包み、手から溢れ、いい匂いを放ちつつこぼれていくさまは。そうしながら汚れを落としてくれるなんて、善すぎる。」(石けん)

 「緑いろの信号」を、「すこし舐めて小さくなった飴玉」と表現していたり、「石けん」に対して、「ほとんど官能的なまでの愛らしさ」があるという。どちらも生活の中に当たり前のように存在しているものたちだが、江國香織の目線を通すことで、なんとも言えない詩情があふれている。また、”色”を”いろ”と書いたり、石鹸を”石けん”と書くところまで、江國らしい言葉の選球眼を見ることができる。

 また、『安っぽい飴の色』というエッセイには、こんな言葉がある。

安っぽい色のものはみんな寛大だ。こんぺいとう、かき氷のシロップ、おもちゃの指輪。昔二十円で売っていた、にごったゼリーのような消しゴム。安っぽい色は、春に似ている。

 初めてこれを読んだとき、自分の無意識の中にひっそりと眠っていた感情のようなものに、名前をあたえられた気がしてびっくりした。そして、それは江國香織の魅力でもある。作家の川上弘美は、江國香織には、こんな「ひみつ」があるという。

「このお話、わかる。たぶん、こんなにこれがわかるのは、私だけじゃないのかな。僕だけじゃないのかな。何がわかるって、そうだな。簡単に表現できちゃうようなものじゃないよ。だって、それなら、『自分だけはわかる』なんて言ってもしょうがないものね。とにかく、わかるんだ。いい匂いのするもの。少しだけしめったもの。でもさらさらとした手ざわりのもの。深く、しみこんでくるんだ。それが。私だけにね。僕だけにね。」

「けれど、江國さんのひみつ、を読んだ後に自分の話をしてみても、なんだかつまらないのだ。江國さんのひみつは、あんなに緊密なのに。色もきれいなのに。かたちもやさしいのに。自分のひみつはつまらない。ほんとうは、自分のひみつは自分にとって一番おもしろいはずなのに。大切なはずなのに」

 江國香織の小説を読んだ人は、誰だってこんなことを思う。僕はカフェオレボウルを買って帰ったとき、母に「ま〜たオシャレぶって変なもの買ってきて」と言われたし、谷川俊太郎に憧れて瓶詰めの金平糖を机に置いて眺めたりしてても、「まーたそんなことしてんの」といろんな人に言われる。それはある種とても正しいことだし、僕としてもわかってくれ、なんてことは思わないのだが、江國香織のようにはいかない。彼女の文体を通して語られることで、その「とるにたらないもの」がうつくしいものとして、輝きだすのである。

 僕は高校のときから江國香織の小説が大好きで、ずっと読み続けている。江國の小説の良さってなんですか、と聞かれたとき、それは直木賞をとっているような、物語の強度の強いものでありながら、純文学ともいえる作品性であったり、独特なうつくしい世界観、など、様々なことが言えると思うが、僕が彼女の小説に惹かれる一番の理由は、その「とるにたらないもの」に向ける視線のようなものだ。
 江國香織の小説には、物語の大筋とはまったく関係のないシーンが多く出てくる。例えば、『ホリー・ガーデン』の果歩がカフェオレボウルでミルクたっぷりの紅茶を淹れて飲むシーン(僕はこれに影響されてカフェオレボウルで飲み物を飲むようにしている)。『薔薇の木枇杷の木檸檬の木』で、草子がほうじ茶と共にカルミンを食べるシーン(残念ながらカルミンは二年前に製造終了してしまった)。これらは物語とは関係のないシーンかもしれないが、これらのシーンが、江國香織の作り出す世界を色付けている。本を閉じた後に残るのは、いつだってミルクたっぷりの紅茶の匂いだったり、カルミンのような少し甘くて爽やかな味だ。
 江國香織は、日常の中で忘れられていくようなもの、必要のないものに対して、あたたかなまなざしを向けている。江國の小説は、まるで氷砂糖を口にふくんでゆっくりなめているような、独特な”甘さ”がある。僕は江國香織のそういった”目線”にとても影響された。「アドバルーン」であったり、「幻燈機」であったり、「ココアシガレット」であったり、僕の中で”詩情”を感じるような、「とるにたらない」ものをよく歌詞や曲名に登場させたりする。それらは曲の核になっている部分とはなんの関係もないように見えるが、春の強い風に飛ばされそうになるような、心もとない気持ちや、大人になりたくてもなれない気持ちを表現するには、アドバルーンやココアシガレットのような、「とるにたらないもの」こそが、僕の中では適切なのだ。
 先月、『薄荷糖の降るところ』という弾き語りのアルバムを作った。タイトルは江國香織の『金平糖の降るところ』のオマージュで、薄荷糖はカルミンのことだし、中には『ぬるい眠り』なんて曲もある。江國香織愛が全面に出た作品だ。
 僕は先月、大学を卒業して、いよいよ「生産性の低いもの」に目を向けているような場合ではなくなってしまった。だからこそ、子供のときにビー玉を透かしてみたり、サハラ砂漠だったか、ゴビ砂漠だったかの砂をつめた瓶を振りながら、遠い異国に想いを馳せたような感覚で聞いてもらえるような曲が作りたくて、『薄荷糖の降るところ』を作った。急ぎ足で作ったし、音も曲もまるで”がらくた”のようにへんてこだが、小さいころになめた外国の飴のようにぺらぺらしていて、カルミンを口にふくんだように、少し甘くてすーっとするような曲たちなので、ぜひ聞いてみてほしい。

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