百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

『世界音痴』な僕ら

 ”自然”な人間に憧れる。”自然”というのは、そこに”馴染んでいる”ということだ。二十二年間、様々なことと格闘したり、しなかったりしてきたが、この”自然”さというものがどうしても身に付かない。
 例えば、イヤホンで音楽を聴きながら、電車の座席に座っていて、次の停車が目的の駅か確認したいとき、普通なら窓の外を見るか、ドアの上についているモニターの案内を見るか、もしくは音声のアナウンスを聞けばいいのだが、僕はそれらができない。座ったまま、状況を確認しようとしたことによって、前で立っている人に「あ、こいつ次で降りそうだな」と思われてしまうからだ。もし次の駅が目的の駅じゃなく、大分、余裕があったときに、そのまま平然と座っていられることができない。だから、読んでいた本をリュックにしまうこともできなければ、触っていたiPhoneをポケットに入れることすらできない。
 ならば、はじめからイヤホンをしなければいい、と思うかもしれない。だけど、僕は性格上イヤホンをして外界を遮断しないと、腹痛を起こして途中下車せざるを得ないはめになってしまうため、イヤホンは欠かすことができない。だから、iPhoneで到着時間を調べておいて、そのタイミングで停車した駅に降りればいい、と思ったのだが、仮に電車が遅延していて、まったく違う駅で降りてしまったときに、また乗り直す、という行為ができない。悩みに悩んだあげく、僕が考えたのは、「イヤホンをしすぎて疲れた人」を装う、ということだ。
 そろそろ目的の駅かな、と思ったとき、イヤホンを片耳だけ外し、耳を少し揉む。ついでにしんどそうな顔をする。そのことによって、「次が目的の駅か確認したい人」じゃなくて、「イヤホンをしすぎて耳が疲れた人」になることができる。その隙に電車のアナウンスを聞き、目的の駅についたら即座に降りる。もう自分でもバカなんじゃないのかな、と思う。電車から降りた時点で、僕は毎日汗だくで、息も切れ切れになる。電車に乗車して、降車する、という極めてシンプルな行為が、僕にとっては一苦労だ。
 自意識が変な方向へひねくれすぎて、無意味に自分を苦しめている。さっきの行為も、何度か続けているうちに、「あ、こいつイヤホンをしすぎて疲れた人を装ってるけど、次が目的の駅か確認してるじゃん」と思われているんじゃないか、という新たな自意識が発生する。「誰もあなたのことなんか見てない」と言ってくれる人がいるが、誰も僕のことを見ていなくても、僕は僕のことを見ているのだ。
 そんなある日、一冊の本に出会った。それが、穂村弘の『世界音痴』というエッセイ集だ。穂村弘は、「ニューウェーブ短歌」として現代歌壇を代表する有名な歌人で、『世界音痴』はそんな彼の、初のエッセイ集にあたる。この本は、世界とうまく馴染むことができない、”音”を合わせることができない、といったような、”自然”さをもつことができない日常のことを細かく描写していて、その様子を、「世界音痴」という言葉で表現している。この本は又吉直樹が紹介していたことで知ったのだが、「世界音痴」というタイトルを見ただけで、一気に引き込まれた。
 例えば、飲み会でのこんなエピソードがある。

やがて座が盛り上がってくると、みんなは「自然に」席を移動しはじめる。自分のグラスを手に、トイレに立ったひとの席に「自然に」座っている。座られた方もごく「自然に」また別のところに移動して、その場所で新たな話の輪をつくっている。だが、私には最初に座った場所を動くことが、どうしても出来ない。

みんなのようにやればいいんだと思っても、トイレに立ったひとの席に自分が座ってしまうと、何かおそろしいことが起きるような気がして体が動かない。なぜなら、私だけは「自然に」それができないからだ。

 

 僕は大学時代、三年生になってようやくできたゼミの友達に誘われ、自分を変えようと思い、同じ学科の人たちの飲み会に初めて参加したことがあった。ちゃんと話せる人が一人しかいない、という状況にドキドキしていると、「好きな女の子の部位を言い合う」という流れになった。男女六人くらいの席で、隣にいるゼミの友達以外は、顔は知っている、という程度の関係だ。その話が始まったとき、「本当にこういう会話ってあるんだな」と思ったのと同時に、全身に緊張が走った。顔は知ってるけど、誰かと話しているのを見たことはない、明るいのか暗いのかさえよくわからない、という認識しかされていない僕が、一番”自然”に思われる返答はなんだ、という地獄の自己問答が始まったからである。
 周りの男子は、「う〜ん、足かなあ」「腰のくびれかなあ」と無難な回答をしたり、「足の付け根の部分」と、マニアックな部位を主張するものもいた。そうか、そう来たか、と思っていると、隣にいたゼミの友達が、「俺はワキだね、ワキ!」と主張し始めた。その友達の発言によって、男子からは「いやワキはないわ、ワキは」という声が飛び、女子からは「うわ〜⚪︎⚪︎はストレートだなあ」という声が飛んだ。「え、ワキってないの?」と思った。僕の中では足やくびれと同じ位相に、ワキが存在していた。その友達はそういうキャラクターだったので、「ま〜たそんなこと言って」みたいな空気になり、話が一気に盛り上がったのだが、その友達の”ワキ”発言によって、次に回答することなる僕へのハードルが一気に上がった。
 「足、くびれからのワキ、次はなんだ?ウケを狙うべきか?それとも素直に自分の好みを言えばいいのか?少し過剰に言ってワキからの連鎖反応を狙ったほうがいいのか?」と、わずか数秒の間に頭をフル回転させていると、「じゃあ⚪︎⚪︎くんはなに?」と聞かれた。まずい、まずい、どうしよう、と思いながら、気づくと僕は「う、うなじかなあ......」と答えていた。
 完全に自分を守りにいってしまった。「うなじねえ〜へえ、いいよね......」と、友達の”ワキ”発言で盛り上がったその席は一気に温度を下げていった。0点の答えを出してしまった。うなじは好きだが、特別好きなわけでもなかった。女性経験も少ないので、「足の付け根の部分」とか、「耳たぶ」とか、少しニッチな部位の良さはわからなかった。うなじよりもおっぱいみたいな、ベタな部位の方が好きだった。多分「おっぱい」って発言していれば、すべってもうけても、それなりのリアクションが返ってきただろう。けど、僕は「おっぱい」と発言することが恥ずかしかった。今こうやって、文章にしていても、「おっぱい」は恥ずかしい。「おっぱい」は魔法のワードだ。”うなじ”と発言することによって、常に見えている部位だから、特にいやらしい人間だと思われることはなく、かといってベタすぎない、という線を狙いにいってしまった。「デコルテ」って言ったら面白いかな、とも一瞬思ったが、それまで一度も発音したことのなかった「デコルテ」という言葉に、僕の唇は慣れていなかった。
 それから小一時間の間、頭の中で「う、うなじかなあ......」という自分の発言を、何度も反芻していた。ジンジャーハイボールを持つ手が震えた。これが「飲み会」なのか、と戦慄した。今思えば、なんて答えようと、ただの会話の流れなんだから、間違いはなかったはずなのだが、僕は腰やくびれと言った彼らのように、”自然”に”うなじ”と発音することができなかった。それは友達の”ワキ”発言も同じで、彼の「俺はワキだね!」という発言には、とてつもない”自然”さがあった。そんな友達がとてもかっこよく見えた。僕以外の人たちは、一年生のときから交流のある一つのグループのような集まりだったので、特に仲良くもない僕のことを気遣ってこんな話を振ってくれたのだろう。そう考えると、「う、うなじかなあ......」と発言したことが、とても申し訳なくなった。
 又吉さんは、『世界音痴』を紹介する際、自分が中学時代、体育祭の全体行進で「だるいわ〜」と無理に悪ぶる同級生を見て恥ずかしくなり、一人だけ全力で行進したら、父兄から写真を撮られ、閉会式で校長から表彰された、というエピソードを添えていた。僕も、高校時代、制服をわざと崩して着るのがちょっと悪くてかっこいい、という周りのスタイルを見て、シャツのボタンを一番上までしめて、ネクタイをきっちり結ぶようにしていた。真夏のクソ暑い時期でも、そうしていた。制服を着崩すのは、周りとは違う、という意思表示だが、僕がやっていたのも、周りとは違うという人たちとは違う、という、意思表示だった。全体で見れば、僕のやっていたことと彼らのやっていたことは、ほとんど同じことだったのだ。今思うと非常にダサかった。
 電車で、「イヤホンをしすぎて疲れた人」を装ったり、カウンターに対するカウンターのつもりで、制服のシャツを第一ボタンまでしめてみたり、僕は”音”を外したようなことばかりしてしまう。僕は、世界には”誰もが当たり前のようにしっているただ一つの重要なこと”があって、自分にだけそれが知らされていないんじゃないか、と思っていた。『世界音痴』にはそういう世界から隔てられたかのような人間の苦しみが、ユーモアを交えて書かれている。
 音痴は練習すればなおるかもしれないが、「世界音痴」はそう簡単になおるものではない。だけど、”音程”はとれなくても、”リズム”が気持ちよく重なったり、奇跡的に音の”ズレ”がハーモニーを生み出す瞬間が、稀に訪れる。音はなかなか合わなくても、僕はそういう瞬間を大切にして、生きていきたい。