百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

Committed To The Cause

 自分の好きなもの、惹かれるものは、ほとんど、寒い場所で生まれている。例えば、シガーロスビョークパスカルピノンを生んだのは、アイスランドレイキャヴィクという街だ。ビクトル・エリセの『エル・スール』は、情熱的なイメージのあるスペインの中でも、雨が多く、寒さの厳しい北部が舞台だし、エリセ自身も雪の多い街で育った。アキ・カウリスマキフィンランド出身だし、太宰治寺山修司は青森、生駒里奈さんと鈴木綺音さんは秋田県の出身だ。不思議なもので、意図的に選んでいるわけではなく、自然と心惹かれるものが、すべて寒い地域で生まれたものなのだ。
 表現には人間の土着性のようなものが、どうしても現れてしまうものだと思う。もしヨンシーが東南アジアの国に生まれていたら、シガーロスのような表現はやっていなかったと思うし、逆に北欧の国に、ラテンのような陽気なリズムはそぐわない。僕が生まれ育ったのは、東京の外れの街で、夏は暑く、冬は寒い、中途半端なところだ。そんな場所で育ちながら、僕が惹かれていったのは、北欧や北国で生まれた表現だったのだ。
 その中でも、僕が特に心惹かれたのが、The Radio Dept.というスウェーデンバンドだ。昨日のブログでも書いたが、高校の時に美術の先生から「Clinging to a Scheme」というアルバムを貸してもらい、そこから好きになった。高校生の時、誰もが経験するように、シューゲイザーにどっぷりハマっていて、特にMy Bloody Valentineが好きだった。二年生の時にライブにも行った。そんな話を先生にしていて、シューゲイザー好きなら、ということで持ってきてもらったのが、この一枚だった。
 初めて聞いたときは、世界的に有名なバンドとは思えないくらい、音が悪くてびっくりした。ローファイと言われるようなバンドも聞いたことはあったが、ブチブチにつぶしたディストーションギターと、必要以上に歪んだドラムマシンは、初めて耳にした音で、衝撃的だった。なにより、その内省的で、完全に社会と断絶されたような響きにとても惹かれた。
 他のシューゲイザー、インディーロックバンドと違って、レディオデプトは音の重ね方だったり、コード感だったり、音作りそのものから、すごく異質だ。彼らの曲は、一聴しただけで心惹かれるような、ポップで甘いメロディーが特徴的だが、実際に真似してみようと思っても、なかなか再現できない。その”異質”な響きには、彼らの”宅録”感のようなものが影響していると思う。
 彼らは、自分たちのことを、「D.I.Y.主義のポップバンド」であるとしている。それは彼らのスタンスに強く表れており、商業主義とは無縁の、字義通りの”インディー”を成し遂げているバンドだ。僕はそういった、D.I.Y.の精神をもった表現が好きだ。そして、そういう精神をもった表現は、大体の場合、とても”いびつ”なものが多い。僕の大好きなアウトサイダーアートの作家、ヘンリー・ダーガーは、八十一歳でその生涯を終えるまで、ほとんど人とコミュニケーションをとることなく、一人でずっと小説と絵画を描き続け、膨大な作品を残して亡くなった。彼の作品は少女が主なモチーフになっているのだが、その少女達に男性器がついていたり、そこで繰り広げられている物語も、かなりいびつなものだ。レディオデプトには、そんなヘンリー・ダーガーに似た、”いびつ”さがある。
 この、”いびつ”さの正体は”デタッチメント”であると僕は思う。社会との”関わりのなさ”というか、完全にデタッチメントな、自分の中だけの世界を突き詰めて表現していくと、その”いびつ”さが現れる。それは先に挙げたように、独特なアレンジや曲調にも現れているが、僕の中で衝撃だったのは「This Past Week」という曲の一節だった。

I want to be a good friend
I want to find my best friend

 僕はミツメもくるりも大好きだが、パーティーの後のうつろな気分は、僕にはわからなかったし、岸田繁が歌うような”別れ”も、高校生のときはうまく実感として理解できなかった。そんな中で、遠く離れた異国の地で、「I want to find my best friend」と歌ってくれる人間がいたことに、驚いたし、その音楽性も相まって、日本語で歌われるよりも自分の中でしっくりきた。この歌詞を見てもわかるように、レディオデプトはずっと閉鎖的、内省、デタッチといったような言葉が当てはまるような表現をし続けてきた。それは彼らの確固たるスタンスだったが、近年、レディオデプトはその様相をがらっと変える。

 二○一○年に発表した「Clinging to a Scheme」から四年の時を経て、長い沈黙を破ってリリースされたのが「Death to Facism」という楽曲だ。タイトルだけ見てわかるように、今までの彼らからは考えられないくらい、”社会的”なメッセージが込められている。この曲は、スウェーデンがその時国政、地方選挙を控えていたため、政治的なメッセージとして発表されたもので、突然の新曲発表にファンは喜びながらも、今までとはまったく違う、社会にとても”コミット”した歌詞、曲調に、とまどいを覚えた。
 彼らは、「Clinging to a Scheme」を発表した年に、日本のメディアに受けたインタビューで、次のように述べている。

「僕達もポリティカルな部分はあるし、しっかりとした意思を持っているけれど、そういうメッセージに固執してしまうと、ロックな音楽というか、攻撃的なものになってしまう。僕達はどちらかというとそういう類のロックに反抗すると言うか、アンチ・ロックというスタンスでスタートしたバンドでもあるんだよね。そういうロック・バンドが陥るようなものとは反対にいたい。だからこそ、D.I.Y.であることが重要なんだ。」

 「Clinging to a Scheme」までのレディオデプトは、啓蒙的なメッセージ性を持ちながら、そこに固執せず、あくまでパーソナルな視点をもって表現を行ってきた。それは「Heaven's On Fire」の冒頭にサンプリングされたサーストン・ムーアのメッセージなどにも現れていた。このスタンスは、僕の中でとてもしっくりくるものだったし、元ゆらゆら帝国坂本慎太郎がソロで表現したのも、それとそれと同じ表現であった。

「政治的な発言もしないですし、社会的なメッセージみたいなものも、もちろん普通に生きているんで、ありますけど、それを音楽で表現しようとは思わない。」

 坂本慎太郎も、レディオデプトと同じように、個人が持つポリティカルな側面を、そのまま音楽として表現することを嫌った。僕個人としての立場も彼らのように、政治的、社会的なメッセージをそのまま音楽や文章で表現しようとは思わない。それは、七十年安保闘争に揺れる世の中で、社会的メッセージのない小説は無意味だとされていた中、社会と断絶した、内的世界を描いた「杳子」や「静物」を発表した古井由吉や、庄野潤三のとっていたスタンスに影響されたものでもあるし、僕が惹かれるのはやっぱりそういう表現だった。
 しかし、去年発表されたレディオデプトのアルバム「Running Out Of Love」は、「スムルト・ファシズム、スロボダ・ナロドゥ!(ファシズムには死を、人民に自由を!)」というユーゴスラビア人民解放戦争のスローガンを引用した、痛烈なメッセージ性を持った楽曲から始まっている。今までとっていたスタンスをすべて否定するかのような、この社会的なメッセージは、「社会全体のレベルが後退し、間違った方向に動いているすべてのことについて」のものらしく、歌詞やアートワークだけでなく、曲調にいたっても、エレクトロ色の強いダンサブルなトラックで、音質もハイファイになり、かつて彼らが持っていたような”いびつ”さは、あまり感じられなくなっていた。
 そのあまりの変わりように、一聴したときはとまどった。なぜ、ここまで社会的な表現になったのか、ボーカルのヨハンは、「歌詞の大部分は皮肉で、ある意味スウェーデンの軍隊業界の偽のコマーシャルのような内容なんだ」と述べている。これを読んだとき、先に引用した坂本慎太郎のインタビューを思い出した。先の発言は、次のように続いている。

「歌詞を深読みできないくらいストレートに言っちゃったほうが、単純に面白い、というのと、あと以外と生々しくないっていうのを発見して。僕個人の叫びに聞こえないっていうか。歌詞を単純化することによって、CMのコピーとか標語みたいな感じになる気がしたんですよね。それは強烈だし、なんか面白いなと。今まで自分がとってきたスタンスと矛盾するとは思わなかったし」

 レディオデプトは坂本慎太郎よりも、より直接的なメッセージ性があるが、両者がとっている立場にはとても近いものがある。「Runnning Out Of Love」も、一聴してわかるくらい大きな変化がありながらも、本来持っていたレディオデプトの原形質的なところは変わっていない。特にそれを感じたのは、アルバムの終盤に収録された、「Committed To The Cause」という曲だった。

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 曲名を見てわかる通り、彼らは”デタッチメント”から”コミットメント”へ移行した。ではその”コーズ”とはなにか。それは曲中の一節に見ることができる。

「Cause when our pain's over/It's someone else's turn(なぜなら僕らの痛みがなくなったときに/今度は誰かの番になるからだ)」

 レディオデプトは”デタッチメント”から”コミットメント”へ移行したが、同じようにその作風を大きく変えたのが、村上春樹だ。彼は河合隼雄との対談の中で、次のように述べている。

「コミットメントということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメントというのがぼくにとっては大事なことだったんですが」

 この言葉の通り、村上春樹は初期三部作と言われる”デタッチメント”な世界観の作品から、オウム真理教の事件などがきっかけとなって、”コミットメント”へと移行していく。レディオデプトの大きな変化も、この村上春樹の発言から読み解くことができるのではないか。村上春樹は、また次のようにも述べている。

「ぼくらの世代が六十年代の末に闘った大義、英語でいうと『コーズ』は、いったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追求するだけのことではなかったのか、というふうに、どんどんとさかのぼって、自分の存在意義そのものが問われてくるんですね。すると、自分そのものを、何十年もさかのぼって洗い直していかざるをえないということになります。」

 二○十一年には大きな震災があり、安全保障関連法や憲法改正などで、自分と同い年くらいの人たちがデモを起こしたり、社会的に大きなうねりの中にいる近年、僕たちの”コーズ”は一体どこにあるんだろう、ということを、レディオデプトの新譜を聴いてから、ずっと考えている。