読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

百年日記帖

ukiyo girlというバンドの人の非商業的な日々 目指せ百年

樋口一葉『たけくらべ』について

 電車に乗っているサラリーマンの顔を見て、ふと、その人の子供時代の顔つきを想像することがよくある。今の顔つきから連想するのではなく、「小さい頃は、こんな感じだったんだろうな」という映像がぱっと浮かんでは消える。子供の頃の面影のようなものが残っているというか、想像しやすい顔つきの人がいるのだ。それはサラリーマンに限ったことではなく、繁華街を歩いていてすれ違った、派手な恰好をした水商売風の女性だったり、バンドマン風の青年だったり、近くのコンビニの店員を見ても思う。そして、彼らがみな、僕と同じように幼い時代があり、九年間の義務教育を終えている、という至極当たり前の事実に、いつも驚かされる。スーパーでレジを打っているあの青年も、風俗で働いているあの女性も、企業戦士として働くあの男性も、昼間から酒場で酒をあおるおじさんにも、平等に”幼い頃”があったのだ。

 樋口一葉の『たけくらべ』は、そんな”幼い頃”を過ごす少年少女達を描いた作品だ。樋口一葉とは、誰もが知っているであろう五千円札の”あの人”だが、何をしている人で、どんなことを成し遂げたのか、知らない人が多い。彼女は明治に活躍した作家で、わずか二十四歳で亡くなるまで、『たけくらべ』や『にごりえ』など、数々の名作を発表し、日本の近代文学史に多大な功績を残した人物だ。(途中、主人公の美登利が大人しくなる理由を、初潮を迎えたからとしていた文壇に対して、初の女性文学者であった佐多稲子が初店説を唱えるなど、文壇にとっても大きな影響を及ぼした作品であった)『たけくらべ』は雅文体という文体で書かれた小説で、平安時代の言葉遣いで全篇通して書かれており、会話文と地の文が混ざり合っていたり、現代人からすれば”読みにくい”と言える小説だが、その雅文体が生み出す独特な日本語のうつくしさとリズム感が、『たけくらべ』の魅力を支えている。

 この『たけくらべ』は、明治時代の吉原の周辺の世界が描かれた小説で、遊女を姉に持つ少女、美登利と、僧侶の息子である信如の淡い恋を中心として、”吉原”という異質な環境で育つ、子供たちの生活とその心理を描いた作品だ。日本の古典文学に影響を受けた、四季折々の描写と、それに伴って描かれる美登利と信如の揺れる恋心が、うつくしい言葉で織りなされており、それがこの小説の一番の魅力とも言える。例えば、こんな一節がある。

信如は今ぞ淋しう見かへれば、紅入り友仙の雨にぬれて、紅葉の形のうるはしきが我が足ちかく散ぼひたる

 使いを頼まれた信如が、激しい雨に打たれて、美登利の住む大黒屋の門前で下駄の鼻緒を切ってしまう。硝子ごしにその様子を眺めていた美登利は、相手が信如だということに気づかず、「友仙ちりめんの切れ端」を持って庭に駆け出す。美登利と信如は、お互いのことを思っていながら、ある誤解から疎遠になっていた。美登利は鼻緒を切ったのが信如であると気づくと、なにも言えずに立ち止まる。信如としても、これから自分が僧侶になる身として、異性を自らに近づけるわけにはいかない。やがて、美登利は母に呼ばれると、格子から何も言わずに「友仙」を投げ出す。そして上に引用したように、信如が後ろを振り返ると、その投げ出された「紅色の友仙」が雨に打たれて濡れている。

 ため息をついてしまうくらい、うつくしいシーンだ。日本人的な感性というか、「雨に濡れた紅入り友仙」という一つの小道具が、二人の揺れ動く恋心と、曖昧な感情を描き出している。美登利は、遊女の姉を持ち、”吉原”という環境の中で、自らもその道に進まざるを得ない、という運命を背負わされている。信如もまた美登利と同じように、僧侶の息子として生まれ、僧侶を目指すようになる。信如の父は、生臭坊主とでもいうような、欲にまみれた人間で、そんな父を信如は嫌い、”清く正しく生きよう”と志す。この、信如の強い意志のようなものに、僕は自分をとても重ねてしまった。

 清く正しく生きていきたい、と思う。人に迷惑をかけず、欲にとらわれず、子供のような無垢な心でありたい、と思う。しかし、それは不可能なことだ。ある日、子供同士の喧嘩に巻き込まれて、「遊女にはこれがお似合いだ」と、美登利は顔に泥のついた草履を投げつけられる。そして、その喧嘩の黒幕には信如がいる、と勝手に吹聴されたことにより、二人の間に誤解が生まれる。この事件で信如は、いくら自分が清く美しく生きようと思っても、”汚い”人間であると思われてしまうことは、避けることができないことを自覚する。これは明治のある少年の心理を描いているようで、僕の心にもとても突き刺さった。どんなに清く生きようとしても、それは不可能に近いことだ。それは明治の”吉原”という異質な環境で語られることではなく、現代の日本の社会にも言えることなのだ。

 物語の一番重要なシーンであった、「紅色の友仙」のシーンと対になるように、ラストシーンには「水仙の造花」が登場する。

龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも、美登利は絶えて聞かざりき。

有し意地をば其ままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有りけるに、或る霜の朝、水仙の作り花を格子門の外より差し入れ置きし者の有りけり。

誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて、違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞く其明けの日は、信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。

 

 ある日、美登利は風の噂で、信如がいよいよ修行の道へ進んだことを知る。すると、ある朝玄関に、水仙の造花が差し入れてあった。誰がこんなことをしたのか、美登利にはわからなかったが、その造花はどこか「懐かしい」雰囲気があり、その清き姿を、美登利はめでる。

 作中では余白を残して語られているが、水仙の造花を差し入れたのは信如であろう。「紅色の友仙」の対となるように、真っ白な水仙の造花を信如は差し入れた。赤と白という日本らしい対の色が、見事に映えている。そして、その水仙は”造花”でなければならなかった。造花であるからこそ、それが”嘘”や”偽物”でも、信如がそうあろうとした清くうつくしい姿が象徴されるし、二人の淡い恋も、永遠性をもって暗示されるのだ。(余談ですが、第9地区という映画でも、ラストシーン、エイリアンに感染した主人公が差し入れたのは鉄で作った造花で、『たけくらべ』に似たようなうつくしさを感じる)

 本物の水仙のようには清く、うつくしくはなれないが、水仙の造り花のように、それが”嘘”であってもうつくしく生きていきたいと、僕は『たけくらべ』を読んで強く思った。

江國香織と『薄荷糖の降るところ』

 幼い頃、がらくたを集めるのが好きだった。がらくたというのは、”生きていく上で必要のないもの”だ。それはいったいどういったものかというと、例えば宝石の原石であったり、動植物の化石、遠い異国の砂漠の砂、ラムネの中に入っていたビー玉、小さな隕石のかけらなどだ。要は子供が無意識にほしがるような、キラキラしていて透明な石や、ロマンを感じさせるようなものが好きで、よく川原に、父親と妹と一緒に水晶の原石を拾いにいったり(これがまたたくさん落ちてるんです)、植物園や博物館に行っては、化石や隕石の小さなかけらを買ってもらえるよう、ねだっていた。自分の想像の範疇を超えたような、長い時間の流れや、遠い異国の地を思わせるようなものが好きだった。
 僕の大好きな、寺山修司の『寺山修司少女詩集』という詩集の中には、こんな詩がある。

財産目録

子供の頃 私は自分が海賊だと思っていた
海賊であるからには 略奪品がなければならない
そこで 私は空想の海へ船出しては
ビー玉 錆びたナイフ
表紙のとれたマーク・トゥエンの本
かじりかけのリンゴ 曲がった釘などを
略奪してきて 私の「財産目録」を作った
恋している女の子の「財産目録」とは一体どんなものだろうか?
それは たとえば 日曜日のクリニアンクールののみの市のように
売り買いしたり
交換できたりしたらいいのに

 

 「ビー玉」や「曲がった釘」など、寺山を印象つけるような言葉が並べられているが、一つ一つのアイテムの並べ方に、詩情を感じる。また、それらで作られた「財産目録」と、恋している女の子の「財産目録」を、「日曜日のクリニアンクールののみの市」のように売り買いしたり、交換できたらいいのに、というところに、寺山らしい、どこかキュートで、瑞々しい感性を思わせる。ビー玉や、化石、遠いどこかの砂漠の砂などは、人間が生きていく上で必要のないものだし、役に立たないものだ。しかし、その役に立たないものが、いまだに僕は好きだ。
 江國香織の小説には、そんな”がらくた”がたくさん登場する。特にそれを象徴しているのが『とるにたらないものもの』というエッセイ集だ。このエッセイ集は、日常の中で、特に注目して目を向けることのないもの、無駄なもの、あってもなくても支障はないものたちに一つ一つ目を向け、そのこだわりや愛情を記したものだ。それは「緑いろの信号」から始まって、レモンしぼり器や輪ゴム、石鹸や、干しブドウの味、など様々なものがある。

「信号の緑は青みがかった緑だが、たまに青くない緑の信号がある。歩行者用の信号ではなく、三色の、車用の信号のなかにある。そういう信号の信号機はたいてい古ぼけているので、たぶん、型の古いものなのだろう。すこし舐めて小さくなった飴玉のような、浅い感じの緑だ。私はその緑の信号が好きで、ときどきとても見たくなる。」(緑いろの信号)

 

「石けんを水やお湯で濡らし、両手で包んでするすると転がす。そのときの、手の中で石けんのすべる感触には、ほとんど官能的なまでの愛らしさがあると思う。それがみるみる泡立って、泡が空気を包み、手から溢れ、いい匂いを放ちつつこぼれていくさまは。そうしながら汚れを落としてくれるなんて、善すぎる。」(石けん)

 「緑いろの信号」を、「すこし舐めて小さくなった飴玉」と表現していたり、「石けん」に対して、「ほとんど官能的なまでの愛らしさ」があるという。どちらも生活の中に当たり前のように存在しているものたちだが、江國香織の目線を通すことで、なんとも言えない詩情があふれている。また、”色”を”いろ”と書いたり、石鹸を”石けん”と書くところまで、江國らしい言葉の選球眼を見ることができる。

 また、『安っぽい飴の色』というエッセイには、こんな言葉がある。

安っぽい色のものはみんな寛大だ。こんぺいとう、かき氷のシロップ、おもちゃの指輪。昔二十円で売っていた、にごったゼリーのような消しゴム。安っぽい色は、春に似ている。

 初めてこれを読んだとき、自分の無意識の中にひっそりと眠っていた感情のようなものに、名前をあたえられた気がしてびっくりした。そして、それは江國香織の魅力でもある。作家の川上弘美は、江國香織には、こんな「ひみつ」があるという。

「このお話、わかる。たぶん、こんなにこれがわかるのは、私だけじゃないのかな。僕だけじゃないのかな。何がわかるって、そうだな。簡単に表現できちゃうようなものじゃないよ。だって、それなら、『自分だけはわかる』なんて言ってもしょうがないものね。とにかく、わかるんだ。いい匂いのするもの。少しだけしめったもの。でもさらさらとした手ざわりのもの。深く、しみこんでくるんだ。それが。私だけにね。僕だけにね。」

「けれど、江國さんのひみつ、を読んだ後に自分の話をしてみても、なんだかつまらないのだ。江國さんのひみつは、あんなに緊密なのに。色もきれいなのに。かたちもやさしいのに。自分のひみつはつまらない。ほんとうは、自分のひみつは自分にとって一番おもしろいはずなのに。大切なはずなのに」

 江國香織の小説を読んだ人は、誰だってこんなことを思う。僕はカフェオレボウルを買って帰ったとき、母に「ま〜たオシャレぶって変なもの買ってきて」と言われたし、谷川俊太郎に憧れて瓶詰めの金平糖を机に置いて眺めたりしてても、「まーたそんなことしてんの」といろんな人に言われる。それはある種とても正しいことだし、僕としてもわかってくれ、なんてことは思わないのだが、江國香織のようにはいかない。彼女の文体を通して語られることで、その「とるにたらないもの」がうつくしいものとして、輝きだすのである。

 僕は高校のときから江國香織の小説が大好きで、ずっと読み続けている。江國の小説の良さってなんですか、と聞かれたとき、それは直木賞をとっているような、物語の強度の強いものでありながら、純文学ともいえる作品性であったり、独特なうつくしい世界観、など、様々なことが言えると思うが、僕が彼女の小説に惹かれる一番の理由は、その「とるにたらないもの」に向ける視線のようなものだ。
 江國香織の小説には、物語の大筋とはまったく関係のないシーンが多く出てくる。例えば、『ホリー・ガーデン』の果歩がカフェオレボウルでミルクたっぷりの紅茶を淹れて飲むシーン(僕はこれに影響されてカフェオレボウルで飲み物を飲むようにしている)。『薔薇の木枇杷の木檸檬の木』で、草子がほうじ茶と共にカルミンを食べるシーン(残念ながらカルミンは二年前に製造終了してしまった)。これらは物語とは関係のないシーンかもしれないが、これらのシーンが、江國香織の作り出す世界を色付けている。本を閉じた後に残るのは、いつだってミルクたっぷりの紅茶の匂いだったり、カルミンのような少し甘くて爽やかな味だ。
 江國香織は、日常の中で忘れられていくようなもの、必要のないものに対して、あたたかなまなざしを向けている。江國の小説は、まるで氷砂糖を口にふくんでゆっくりなめているような、独特な”甘さ”がある。僕は江國香織のそういった”目線”にとても影響された。「アドバルーン」であったり、「幻燈機」であったり、「ココアシガレット」であったり、僕の中で”詩情”を感じるような、「とるにたらない」ものをよく歌詞や曲名に登場させたりする。それらは曲の核になっている部分とはなんの関係もないように見えるが、春の強い風に飛ばされそうになるような、心もとない気持ちや、大人になりたくてもなれない気持ちを表現するには、アドバルーンやココアシガレットのような、「とるにたらないもの」こそが、僕の中では適切なのだ。
 先月、『薄荷糖の降るところ』という弾き語りのアルバムを作った。タイトルは江國香織の『金平糖の降るところ』のオマージュで、薄荷糖はカルミンのことだし、中には『ぬるい眠り』なんて曲もある。江國香織愛が全面に出た作品だ。
 僕は先月、大学を卒業して、いよいよ「生産性の低いもの」に目を向けているような場合ではなくなってしまった。だからこそ、子供のときにビー玉を透かしてみたり、サハラ砂漠だったか、ゴビ砂漠だったかの砂をつめた瓶を振りながら、遠い異国に想いを馳せたような感覚で聞いてもらえるような曲が作りたくて、『薄荷糖の降るところ』を作った。急ぎ足で作ったし、音も曲もまるで”がらくた”のようにへんてこだが、小さいころになめた外国の飴のようにぺらぺらしていて、カルミンを口にふくんだように、少し甘くてすーっとするような曲たちなので、ぜひ聞いてみてほしい。

soundcloud.com

トーチソングと『日々のゆくえ』

 自分の好きなものが、どうして好きなのか、考えることがある。しかし、それらを言葉で説明しようとすると、往往にして、うまく説明できないことが多い。好きであればあるほどだ。例えば、コード進行が巧みであるとか、情景描写がうまい、とか、技術であったり理論的な話であれば説明がつくが、それらになぜ惹かれて、なぜ好きなんだろう?と考えると、難しい。しかし、その自分の好みであったり、趣味を突き詰めて考えていくと、”自分”というものが段々と輪郭を帯びるように、見えてくることがある。
 高校生の時、三年間の片思いが破れ、ひどく落ち込んだことがあった。それは一生懸命アプローチして、頑張った結果ダメだった、というショックではなく、奥手すぎてあまりにも何もできなくて、その自分の不甲斐なさに落ち込んだ。それから一週間くらいは、自室でただ何も考えず、ボーッとするだけの日々を送った。ちょうど卒業前の時期だったので、「こんなんで大学生活はうまくいくんだろうか」と不安になった。そんな時に、ある一曲に出会った。その曲を聴いた瞬間、目が覚めるような思いがした。

www.youtube.com

 ボン・イヴェールは、ジャスティン・バーノンを中心としたアメリカのフォークバンドで、この『Holocene』という曲は、グラミーの最優秀新人賞を獲得した、2ndアルバムに収録されている曲だ。初めてこの曲を耳にした時、心がすーっと軽くなっていくような、不思議な感慨があった。アイスランドで撮影されたというPVも相まって、ジャスティン・バーノンの歌声が遠いようでとても近い、不思議な距離で聞こえた。あまりにも響いてしまって、一日に何度も何度も繰り返し再生した。ジャスティンの個人的なイメージと、追憶がごちゃ混ぜになった歌詞が、不思議なリズムの、美しいギターのアルペジオに乗っていて、こんなにうつくしい曲があるんだ、とびっくりした。
 大学に入ってからしばらくして、『Holocene』と同じような響きを持った曲に出会った。それがTobias Jesso Jr.の『True Love』という曲だ。

www.youtube.com

 Tobias Jesso Jr.はカナダ、バンクーヴァー出身のシンガーソングライターで、アデルや元ガールズのチェット”JR”ホワイトに才能を認められて、デビューしたアーティストだ。この『True Love』という曲は、ピアノ一つと歌だけのシンプルなものだが、古びたテープに通したような、チープなピアノの音と、ささやくような歌声が、ボン・イヴェールと同じように、不思議な距離感を持って響いた。
 ジャスティン・バーノンやTobias Jesso Jr.の良さを語るのであれば、うつくしいメロディや、時代に囚われない音楽性、詩的な歌詞など、いくらでも言うことはできるが、それよりも彼らの曲が自分の耳に、同じような感慨を持って聴こえたのが不思議だった。調べていくと、二人の経歴にこんな共通点があった。
 ボン・イヴェールこと、ジャスティン・バーノンは、ノース・カロライナでやっていたバンドがダメになり、恋人と別れ、病気に罹り、その心と身体の傷を癒すようにして、故郷であるウィスコンシン州に戻り、森の奥の雪に閉ざされた小屋で、曲を作るようになったらしい。まるで映画のような話だが、それは幽玄で幻想的な、彼の曲の魅力を裏付けている。一方、Tobias Jesso Jr.も、母の病気や、大きな失恋を経て、ロサンゼルスから故郷バンクーヴァーへと戻り、運送会社で働きながら、妹の残したピアノをきっかけに曲作りを始めていった。
 二人とも、失恋や病気などの挫折を経て、故郷に戻り、”自分”のために曲作りを始めた、というソングライターであった。この事実を知ったとき、びっくりしたのと同時に、彼らの音楽を通して、”自分”というものの輪郭が少し掴めたような気がした。
 高校時代、三年生最後に大きな失恋を経て、あとは大学入学を待つだけの時期に、急に曲がたくさん書けるようになったことがある。それまでも、宅録は続けていたのだが、自分の中で、とても”しっくり”くる曲ができたのは、その時が初めてであった。失恋によるショックに耐え切れず、フラストレーションを吐き出すように曲を作った。その曲達は、やがて『日々のゆくえ』という一つのアルバムになった。僕自身、ジャスティン・バーノンや、Tobias Jesso Jr.のように、挫折を経て、東京の外れ、裏は大きな山になっている実家の小さな自室で曲を作るようになった。
 作家の村上春樹は、自らの”小説を書く”という行為を、次のように語っている。

「なぜ小説を書きはじめたかというと、なぜだかぼくもよくわからないのですが、ある日突然書きたくなったのです。いま思えば、それはやはりある種の自己治療のステップだったのだと思うのです」

 僕にとっても、そして彼らにとっても、”曲作り”という表現を行うことが、そのまま「自己治療のステップ」であったのだろう、と思う。そして僕が惹かれる音楽、小説、絵画などは、総じて、そういった”自分のために”作られた表現であることに気づいた。この”気づき”は自分の中でとても大きいものだったし、一つの指標のようなものになった。
 去年、突如として現れ、一気に知名度を上げていった、Whitneyというバンドがいる。このバンドに『Golden Days」という曲がある。

www.youtube.com

 この曲を初めて聴いたとき、一瞬で心を持っていかれた。楽器の音も、アレンジも、ジュリアンの特徴的なファルセットボイスも、完璧だと思った。それと同時に、やはり先に述べた二人のような、不思議な響きがした。Whitneyは以前Smith Westernsを組んでいたギターのマックスと、ドラムボーカルのジュリアンによって結成されたバンドだ。この二人は、お互いに恋人にフラれ、住む場所を失い、そのままマックスの実家があるウィスコンシン州の小屋で暇つぶしに曲を書くようになったらしい。失恋した上に、”ウィスコンシン州の小屋”で曲を書きはじめた、というところまで、ジャスティン・バーノンとまったく同じで、よくできすぎた話だが、二人の音楽は、まったく違うアプローチでありながら、やはり同じような響きを持って聞こえる。この間、彼らが日本に来日していて、ライブを見に行ったのだが、ジュリアンが酔いすぎたために40分ほどで帰ってしまった。観客からはブーイングが飛び、僕としても非常に残念だったが、去り際のジュリアンのナイーブそうな目つきを見つめていたら、「そうだ、そうなんだよな」と妙な納得と、しみじみとした感慨があった。
 自分の好きなもの、惹かれるものがなぜ好きなのか、という理由を辿っていくと、その手つきや足つきというものはしっかりと残っていて、それを考えていくことが、”自分”というものを考えていく作業なんじゃないかと思う。上の三人はできすぎた話のように、似通っているが、最近ではRadioheadの『Daydreaming』であったり、Dirty Projectorsの『Little Bubble』にも同じ響きを感じる。やはり、彼らも調べていくと、”挫折を経て自己治療のステップとして曲を書いた”りしていて、それらが同じ響きを持って届くのは、不思議だし、面白さでもある。
 高校時代好きだった女の子は、自分とびっくりするくらい趣味趣向が被っていて、それを知ったとき、勝手に運命じみたことを夢想していた。だからこそ、どうしてダメだったんだろう、とか女々しい追憶を繰り返していたが、以前、大学の友達にその話をしたら、「⚪︎⚪︎はそう思ってたし、自分と同じような趣味や考えの女の子がいたら俺でもそう思うと思うけど、趣味趣向とか関係なく、ただ単にゴリゴリにフラれてたんだろうなあ」と言われた。目が飛び出そうなくらい衝撃的だったし、その通りだ、と思った。僕は自分の好きなものや、趣味趣向だけに囚われていて、自分自身の魅力であったり、良さのようなものはほとんど見えていなかった。当時の僕は、前髪が異様に長くて、何考えてるかわからないような変なやつだったので、僕が女の子でもそんな、変なやつと付き合いたいと思わなかったであろう。そんな、至極当たり前のことに、気づかないまま数年間もやもやと考えていたのだが、その友達の一言で一気にそれらが晴れた。そんな友達の発言を聞いて、僕の残念な失恋や、過去を振り返ってみると、それらは、ボン・イヴェールの『Holocene』の最初の一節に集約されていたのではないか、と思う。

"Someway, baby, it's part of me, apart from me."


「なんとなくあれも自分の一部って気がする。もう手が届かないけどね」

『世界音痴』な僕ら

 ”自然”な人間に憧れる。”自然”というのは、そこに”馴染んでいる”ということだ。二十二年間、様々なことと格闘したり、しなかったりしてきたが、この”自然”さというものがどうしても身に付かない。
 例えば、イヤホンで音楽を聴きながら、電車の座席に座っていて、次の停車が目的の駅か確認したいとき、普通なら窓の外を見るか、ドアの上についているモニターの案内を見るか、もしくは音声のアナウンスを聞けばいいのだが、僕はそれらができない。座ったまま、状況を確認しようとしたことによって、前で立っている人に「あ、こいつ次で降りそうだな」と思われてしまうからだ。もし次の駅が目的の駅じゃなく、大分、余裕があったときに、そのまま平然と座っていられることができない。だから、読んでいた本をリュックにしまうこともできなければ、触っていたiPhoneをポケットに入れることすらできない。
 ならば、はじめからイヤホンをしなければいい、と思うかもしれない。だけど、僕は性格上イヤホンをして外界を遮断しないと、腹痛を起こして途中下車せざるを得ないはめになってしまうため、イヤホンは欠かすことができない。だから、iPhoneで到着時間を調べておいて、そのタイミングで停車した駅に降りればいい、と思ったのだが、仮に電車が遅延していて、まったく違う駅で降りてしまったときに、また乗り直す、という行為ができない。悩みに悩んだあげく、僕が考えたのは、「イヤホンをしすぎて疲れた人」を装う、ということだ。
 そろそろ目的の駅かな、と思ったとき、イヤホンを片耳だけ外し、耳を少し揉む。ついでにしんどそうな顔をする。そのことによって、「次が目的の駅か確認したい人」じゃなくて、「イヤホンをしすぎて耳が疲れた人」になることができる。その隙に電車のアナウンスを聞き、目的の駅についたら即座に降りる。もう自分でもバカなんじゃないのかな、と思う。電車から降りた時点で、僕は毎日汗だくで、息も切れ切れになる。電車に乗車して、降車する、という極めてシンプルな行為が、僕にとっては一苦労だ。
 自意識が変な方向へひねくれすぎて、無意味に自分を苦しめている。さっきの行為も、何度か続けているうちに、「あ、こいつイヤホンをしすぎて疲れた人を装ってるけど、次が目的の駅か確認してるじゃん」と思われているんじゃないか、という新たな自意識が発生する。「誰もあなたのことなんか見てない」と言ってくれる人がいるが、誰も僕のことを見ていなくても、僕は僕のことを見ているのだ。
 そんなある日、一冊の本に出会った。それが、穂村弘の『世界音痴』というエッセイ集だ。穂村弘は、「ニューウェーブ短歌」として現代歌壇を代表する有名な歌人で、『世界音痴』はそんな彼の、初のエッセイ集にあたる。この本は、世界とうまく馴染むことができない、”音”を合わせることができない、といったような、”自然”さをもつことができない日常のことを細かく描写していて、その様子を、「世界音痴」という言葉で表現している。この本は又吉直樹が紹介していたことで知ったのだが、「世界音痴」というタイトルを見ただけで、一気に引き込まれた。
 例えば、飲み会でのこんなエピソードがある。

やがて座が盛り上がってくると、みんなは「自然に」席を移動しはじめる。自分のグラスを手に、トイレに立ったひとの席に「自然に」座っている。座られた方もごく「自然に」また別のところに移動して、その場所で新たな話の輪をつくっている。だが、私には最初に座った場所を動くことが、どうしても出来ない。

みんなのようにやればいいんだと思っても、トイレに立ったひとの席に自分が座ってしまうと、何かおそろしいことが起きるような気がして体が動かない。なぜなら、私だけは「自然に」それができないからだ。

 

 僕は大学時代、三年生になってようやくできたゼミの友達に誘われ、自分を変えようと思い、同じ学科の人たちの飲み会に初めて参加したことがあった。ちゃんと話せる人が一人しかいない、という状況にドキドキしていると、「好きな女の子の部位を言い合う」という流れになった。男女六人くらいの席で、隣にいるゼミの友達以外は、顔は知っている、という程度の関係だ。その話が始まったとき、「本当にこういう会話ってあるんだな」と思ったのと同時に、全身に緊張が走った。顔は知ってるけど、誰かと話しているのを見たことはない、明るいのか暗いのかさえよくわからない、という認識しかされていない僕が、一番”自然”に思われる返答はなんだ、という地獄の自己問答が始まったからである。
 周りの男子は、「う〜ん、足かなあ」「腰のくびれかなあ」と無難な回答をしたり、「足の付け根の部分」と、マニアックな部位を主張するものもいた。そうか、そう来たか、と思っていると、隣にいたゼミの友達が、「俺はワキだね、ワキ!」と主張し始めた。その友達の発言によって、男子からは「いやワキはないわ、ワキは」という声が飛び、女子からは「うわ〜⚪︎⚪︎はストレートだなあ」という声が飛んだ。「え、ワキってないの?」と思った。僕の中では足やくびれと同じ位相に、ワキが存在していた。その友達はそういうキャラクターだったので、「ま〜たそんなこと言って」みたいな空気になり、話が一気に盛り上がったのだが、その友達の”ワキ”発言によって、次に回答することなる僕へのハードルが一気に上がった。
 「足、くびれからのワキ、次はなんだ?ウケを狙うべきか?それとも素直に自分の好みを言えばいいのか?少し過剰に言ってワキからの連鎖反応を狙ったほうがいいのか?」と、わずか数秒の間に頭をフル回転させていると、「じゃあ⚪︎⚪︎くんはなに?」と聞かれた。まずい、まずい、どうしよう、と思いながら、気づくと僕は「う、うなじかなあ......」と答えていた。
 完全に自分を守りにいってしまった。「うなじねえ〜へえ、いいよね......」と、友達の”ワキ”発言で盛り上がったその席は一気に温度を下げていった。0点の答えを出してしまった。うなじは好きだが、特別好きなわけでもなかった。女性経験も少ないので、「足の付け根の部分」とか、「耳たぶ」とか、少しニッチな部位の良さはわからなかった。うなじよりもおっぱいみたいな、ベタな部位の方が好きだった。多分「おっぱい」って発言していれば、すべってもうけても、それなりのリアクションが返ってきただろう。けど、僕は「おっぱい」と発言することが恥ずかしかった。今こうやって、文章にしていても、「おっぱい」は恥ずかしい。「おっぱい」は魔法のワードだ。”うなじ”と発言することによって、常に見えている部位だから、特にいやらしい人間だと思われることはなく、かといってベタすぎない、という線を狙いにいってしまった。「デコルテ」って言ったら面白いかな、とも一瞬思ったが、それまで一度も発音したことのなかった「デコルテ」という言葉に、僕の唇は慣れていなかった。
 それから小一時間の間、頭の中で「う、うなじかなあ......」という自分の発言を、何度も反芻していた。ジンジャーハイボールを持つ手が震えた。これが「飲み会」なのか、と戦慄した。今思えば、なんて答えようと、ただの会話の流れなんだから、間違いはなかったはずなのだが、僕は腰やくびれと言った彼らのように、”自然”に”うなじ”と発音することができなかった。それは友達の”ワキ”発言も同じで、彼の「俺はワキだね!」という発言には、とてつもない”自然”さがあった。そんな友達がとてもかっこよく見えた。僕以外の人たちは、一年生のときから交流のある一つのグループのような集まりだったので、特に仲良くもない僕のことを気遣ってこんな話を振ってくれたのだろう。そう考えると、「う、うなじかなあ......」と発言したことが、とても申し訳なくなった。
 又吉さんは、『世界音痴』を紹介する際、自分が中学時代、体育祭の全体行進で「だるいわ〜」と無理に悪ぶる同級生を見て恥ずかしくなり、一人だけ全力で行進したら、父兄から写真を撮られ、閉会式で校長から表彰された、というエピソードを添えていた。僕も、高校時代、制服をわざと崩して着るのがちょっと悪くてかっこいい、という周りのスタイルを見て、シャツのボタンを一番上までしめて、ネクタイをきっちり結ぶようにしていた。真夏のクソ暑い時期でも、そうしていた。制服を着崩すのは、周りとは違う、という意思表示だが、僕がやっていたのも、周りとは違うという人たちとは違う、という、意思表示だった。全体で見れば、僕のやっていたことと彼らのやっていたことは、ほとんど同じことだったのだ。今思うと非常にダサかった。
 電車で、「イヤホンをしすぎて疲れた人」を装ったり、カウンターに対するカウンターのつもりで、制服のシャツを第一ボタンまでしめてみたり、僕は”音”を外したようなことばかりしてしまう。僕は、世界には”誰もが当たり前のようにしっているただ一つの重要なこと”があって、自分にだけそれが知らされていないんじゃないか、と思っていた。『世界音痴』にはそういう世界から隔てられたかのような人間の苦しみが、ユーモアを交えて書かれている。
 音痴は練習すればなおるかもしれないが、「世界音痴」はそう簡単になおるものではない。だけど、”音程”はとれなくても、”リズム”が気持ちよく重なったり、奇跡的に音の”ズレ”がハーモニーを生み出す瞬間が、稀に訪れる。音はなかなか合わなくても、僕はそういう瞬間を大切にして、生きていきたい。

『お別れの音』とハヤシくん

 よく通っているコンビニエンスストアに、ハヤシくんという店員がいる。僕の家からは、歩いていける距離に二つ、コンビニがあって、右と左にそれぞれ一つずつ、セブンイレブンがある。右側にあるセブンは、少し小さめの、家族で経営しているような、アットホームな空気感が流れるところで、左側にあるセブンは対照的に店員さんの愛想は悪いが、品揃えが豊富な店舗だ。距離としては左側のセブンの方が近いのだが、僕は右側のアットホームな雰囲気が好きで、よくそっちに通っている。
 ハヤシくんは、僕と同い年か、少し上くらいの人で、赤ちゃんのようなもっちりとした肌に、「いらっしゃいませ〜!」と、少し甲高いエンジェルボイスが特徴的な店員さんだ。このハヤシくんが、とてもおっちょこちょいな人で、お釣りを間違えたり、備品の入れ忘れがあったり、なにかとミスが多い。だけど、その雰囲気から伝わる誠実さが好きで、積極的にハヤシくんのレジに並んでしまう。ハヤシくんの「ありがとうございました〜!」を聞くと、こっちまでどこか清くなれたような気がする。
 ハヤシくんは、そんな不思議な魅力を持った店員さんなのだが、一つ疑問に思っていることがある。それは、彼のレジでお酒を買おうとすると、毎回のように年齢確認をされる、ということだ。セブンイレブンは、ご存知の通り、お酒やタバコなどを購入しようとすると、レジのタッチパネルに十八歳以上か否かの確認ボタンが現れ、外見から明らかに大人な人でも、それを押さないと買えない、という仕組みになっている。
 問題はそこからで、僕は何度もハヤシくんのレジでお酒を購入したことがあるのに、なぜか毎回、申し訳なさそうに「すみません......年齢を確認できるものをご提示お願いします」と言われる。最初の二、三回は、「ここの店舗はそういう決まりになっているのかな?」とか「ハヤシくんに顔を覚えられてないのかな」と思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。僕としても、「あれ、ここって毎回提示しないといけない決まりだったりしますか?」と聞けば解決する話なのかもしれないが、僕の性格上、そういうことは聞けないし、単純にそのやりとりがどこか面白くて、何も言わずに爆弾魔みたいな目つきの証明写真がついた免許証を提示した。しかし、何十回もそういうやりとりを繰り返していると、僕が免許証を手渡した瞬間に、「ご協力ありがとうございま〜す!」と、速攻で返される。もうほとんど免許証に目を通していないし、年齢確認、というやり取りが完全に形骸化している。
 だけど、このまったく意味のないやり取りが、僕は好きだ。客と店員という関係で、業務以外のことで一言も話したことはないが、お互いに「わかりきっているのに、年齢確認をする」という行為で、不思議なつながりが生まれている。マニュアル化されすぎた接客を、突き詰めたことで、マニュアルからはみ出した行為になっているのだ。


 青山七恵という作家に、『お別れの音』という作品がある。青山七恵は二○○七年に『ひとり日和』で芥川賞を取った、若手の女性作家で、僕は処女作『窓の灯』を読んでファンになり、そこから彼女の作品を読み続けている。『お別れの音』は六つの作品が収録された短編集で、タイトル通り、「別れ」をテーマにした作品が収められている。
 青山七恵は、極めてミクロな視点で物事を見つめる作家だ。彼女の書く小説には、大きな展開やどんでん返しのようなものはなく、物語と言えるのかも曖昧なくらい、淡々と話が進行していく。処女作『窓の女』は、向かいの部屋の窓を覗くことを日課とする女性の話で、芥川賞をとった『ひとり日和』は、突然始まった、七十一歳の吟子さんとの同居生活を通して、成長していく女性の話だ。彼女の作品は、あるカップルの話を書くわけでもなく、不倫関係にある男女を描くわけでもなく、強い絆で結ばれた友情を描くわけでもない。窓越しに生活を覗き見る、見られるという関係や、五十も離れた同性との同居など、極めて現代的な、ある種希薄とも言える関係性を、丁寧に見つめ、文章を織りなしていく。その複雑に編み込まれた関係性を、上から見ると、一つの模様になっている、とでもいうような独特な”視線”が、青山七恵の一番の特徴であると思う。『お別れの音』に収録されている作品も、そんな彼女の”視線”があらわれている話だ。
 『お別れの音』は、先に述べた通り、「別れ」が主題にある作品が収められているが、その「別れ」というのが、あるカップルや、男女の別れではなく、店員と客であったり、会社のよく話したことのない上司、などほとんど他人とでもいうべきような存在との「別れ」で、ここに青山七恵らしさが強くあらわれている。例えば、最初の『新しいビルディング』は、入社したばかりの主人公マミコが、大して話したこともない先輩上司、フジクラの妊娠、そしてそれによる退社の報告を受け、やがてその退社日を迎える、というだけの話だ。なんの起伏もない、ただの日常を切り取っただけのような話だが、タイトルの『お別れの音』という言葉通り、物語には”音”が効果的な仕掛けとして登場している。

「キャビネットの脇に置いてある急須に茶葉を入れ、ポットのお湯を注いだ。いつもはビル建設の音にかき消されてしまうような音なのに、今日に限っては、どの金属音よりも耳の近くで聞こえるような気がした」

 フジクラが会社にいる最後の日、初めてマミコはフジクラと言葉を交わす。そのことによって、フジクラが「お茶を淹れる」という、ただそれだけの些細な生活音が、いつもと違った響きをもって、マミコに聞こえる。彼女にとってビルの建設音は、日常性を伴った音だったが、その日常性に”揺らぎ”が生じているのだ。

「向かいのビルの名前、知ってます?」
 食べながら、フジクラがマミコに問いかける。
「いえ、なんて言うんですか」
「さあ。ヒグチさんなら知っているかと思って。よく見てるから」

 二人が交わした、初めてのまともな会話。マミコは「向かいのビル」の名前を知っていたが、知らないふりをする。このフジクラの「ヒグチさんなら知っているかと思って。よく見てるから」という発言によって、”観察者”として、”見る”側にいたはずのマミコが、フジクラから”見られる”側として存在していたことを知る。それによって、マミコの日常性に、一つの揺らぎが生じる。物語の最後、マミコは”何か”を思い出そうとするが、外で鳴り響くビルの轟音、つまりは日常性によって、かき消されてしまう。これは、誰もが経験したことあるような、日常の中の些細な揺らぎや動揺であり、それは”かなしみ”でも”怒り”でもなく、名前のつけようのない感情である。青山は、そういった揺らぎを丁寧に描き出しているのだ。
 僕が『お別れの音』の中でも特に好きなのが、『うちの娘』という作品だ。これは、大学の食堂で働く、雪子という女性が、いつもわかめうどんを頼む女学生に対して、段々と娘のような感情を持つ、という話である。雪子のそういった感情は段々と強くなり、ストーカーまがいの行動をしだしたり、最後には、その女学生が付き合いだした男の子に対して、説教じみたことをぶつけるようになる。
 毎朝、電車で一緒の車両に乗っている”あの人”や、近くのスーパーのかわいい”店員”さんなど、無意識に、または意識的に特定の”他人”を捉えていたことはないだろうか。きっと、誰もがそういった経験をしながら、日常性の中に取り込まれ、意識のどこかに取り残したまま、忘れていく。青山七恵の”視線”というのは、対象は見つめていないが、たまたま視界の隅に入ったような映像だ。そんなふと目にしてはすぐ消えてしまうような、場面、偶然耳に飛び込んできた音のようなものを、一つ一つ丁寧にすくい上げて、描いているのだ。
 僕とセブンイレブンの店員、ハヤシくんのように、それまで”他人”であり、今も”他人”であるはずなのに、その関係性に”揺らぎ”が生じることがある。それが、僕にとっては、年齢確認という行為だった。しかし、最近そのハヤシくんからの年齢確認が無くなった。なぜだろう、と思って考えてみると、先月、大阪でライブをするために、そのコンビニからギターを送ろうと手続きをしていて、ダンボールのサイズ的に宅急便で運べるかわからない、ということになり、ハヤシくんが「もしかしたらサイズ的に持っていってくれないかもしれないんですけど、いつも来てくださいますし、聞かれても黙っておきますね」と気を使ってくれたことがあったのを思い出した。
 その時僕は、「ハヤシくんは僕の存在を、ちゃんと認識してたんだな」と初めて気づいた。何百回と通っているんだから当たり前といえば、当たり前な話なのだが、『新しいビルディング』のマミコと同じように、観察者であったはずだったのに、いつの間にか僕は”見られる”側の存在でもあった。多分、あの時のやり取りで、ハヤシくんの中でも、僕への認識が変わったのだろう。それから年齢確認をされたことは、一度もない。
 昔、好きだった女の子に似ていた、イオンモールの金券ショップのお姉さんや、ハヤシくんと同じコンビニで勤めていた大山のぶ代に声も見た目もそっくりなおばちゃんは、いつの間にかいなくなっていた。どちらも意識の片隅のほうで捉えていただけの存在だったが、いなくなったことに気づいた途端に、一気に表層化した。ハヤシくんも、彼女達と、そしてフジクラや女学生と同じように、いつの間にかいなくなってしまうのかもしれない。特別、深い興味があるわけでもなければ、なんとも思っていないわけでもない。だけど、彼がセブンイレブンを去る前に一度、他愛もない話ができたらいいな、なんてことを思っている。

『サブマリン』について

 自分の理想を具現化したかのような、完璧な作品に出会うことが、たまにある。音楽や小説、映画といったようなものは、たくさんの作品に触れていくうちに、個人の好みというものが段々と固まっていくが、僕はその好みの幅というものが、他の人に比べて狭い。しかし、そんな狭い隙間にぴったりフィットするような、作品がたまに現れることがある。

 『サブマリン』という映画が、その内の一つだ。これは二○一○年に製作されたイギリス映画で、風変わりでクラスから浮いている、十五歳の少年、オリバーの恋愛、家族、妄想など、思春期故の悩みや、成長を描いた作品だ。この作品を知ったのは高校生の時で、大好きなArctic Monkeysのボーカル、アレックス・ターナーが劇伴を担当している映画があることを知り、探している内に、この動画に出会った。

www.youtube.com

 『サブマリン』のトレイラー映像に、劇中のラストに流れる「Stuck On The Puzzle」という曲が乗っているものなのだが、初めて見たとき、この3分ちょっとの映像と音楽に、一気に心を持っていかれた。僕は「I Bet You~」や「Brianstorm」のような、Arctic Monkeysらしいポストパンリバイバルな曲も好きだが、それ以上に「Only Ones Who Know」や「Riot Van」のような、アレックス・ターナーのメロウでロマンチックな一面が好きだ。

 この「Stuck On The Puzzle」は、アレックス・ターナーのそういう一面が強い曲で、トイピアノのような揺れるピアノのリードフレーズに、おもちゃの楽隊が叩いてるかのような、シンプルなドラム、子供が背伸びしてロマンチストを気取っているような、無垢だけど少しせつないメロディが印象的で、一度聞いただけで、神さまみたいな完璧な曲だと思った。どうしても、この『サブマリン』が見たかったのだが、当時はミニシアターでたまに流れてたくらいで、日本語訳でDVDなどが流通しておらず、初めて本編を観れたのは、大学生になってからだった。

 まず、主人公オリバーを演じる、クレイグ・ロバーツの目がとても好きだ。アレックス・ターナーの若い頃を思わせるようなポーカーフェイスで、物憂げでぼんやりしてるけど、どこか真っ直ぐな目付きにとても惹かれる。彼が演じるオリバーは、空想ぎみで、授業中に、もし自分が死んだら、立派な葬式が挙げられ、クラスメイトはテレビの取材で自分のことを嘆き悲しむ、なんて妄想を繰り広げる、クラスでも浮いている男の子で、恋人を家に招待するときにわざわざ家を飾り付けて、スーツで出迎えるような、どこかユニークで、自意識過剰な一面もある。

 そんな彼は、クラスメイトで、同じくクラスから浮いている、ジョーダナに恋をする。このジョーダナを演じているヤスミン・ペイジも素晴らしい。目鼻立ちのしっかりした、海外の女優らしい顔つきではなく、そばかすの多い丸顔で、いつもふくれっ面なのだが、どこか惹かれる、『ゴーストワールド』のイーニドに似たかわいさがある。ジョーダナは小悪魔とでもいうような女の子で、オリバーはそんな彼女に振り回される。

 物語としては、遊び半分に彼を振り回すジョーダナと、そんな彼女と”恋人”になったと舞い上がり、期待を膨らませるオリバーの、短い恋というのが大筋なのだが、それがArctic MonkeysやVampire Weekendなど、様々なバンドのミュージックビデオを手がけたリチャード・アヨエイドらしい、瑞々しくてユニークな映像と演出をもって繰り広げられる。日本ではミニシアターのみの公開だったし、特別高い評価を受けた作品ではないが、僕にとっては特別な一本となった。なぜなら、クレイグ・ロバーツ演じるオリバーの姿に、自分をとても重ねてしまったからだ。

 コインを投げたり、フランスの音楽を聴いたり、帽子に凝ったり、人があまり感心を持たないような変なことにハマっては、すぐに飽きたり、自意識過剰で変な方向に考えが行ってしまったり、ジョーダナのような女の子に振り回されたり、オリバーの行動や考えの一つ一つがとても自分に重なった。僕も江國香織に影響されて、カフェオレボウルで紅茶を淹れて飲んでみたり、谷川俊太郎に憧れて瓶詰めの金平糖をデスクに置いてみたり、アメリカの映画に影響されて、赤い大きなプラスチックカップでジュースを飲んでみたり、人がどうでもいいと思うようなことにハマっては、すぐに飽きる。高校一年生の時に生まれて初めてできた彼女も、ジョーダナとそっくりのショートカットでそばかすだらけの女の子だったりして、自らを映画の主人公に重ねるのはちょっとイタいな、と自分でも思うが、いろんなことが重なってすごく作品に入り込んだ。初めてできた彼女は、ジョーダナと同じように、彼氏と別れたばかりの時期に僕と付き合って、数ヶ月もしない内に、新しい人を見つけて去っていった。あまりにも悲しかったので、一週間くらいは家から出られなかった。

 僕はオリバーみたいな素敵な男の子ではないし、『サブマリン』のようなうつくしい経験をしたわけでもないが、僕の思い出したくないような記憶や風景さえも、うつくしかったのかもしれないと、リチャード・アヨエイドは思わせてくれた。きっと彼は全世界の僕のような、自意識過剰で女々しい人間のためにこの映画を作ってくれたんじゃないか、と思う。そして、僕が作中でも、特に好きだったのは、オリバーがジョーダナへ送ったラブレターだった。

親愛なるジョーダナへ

君の体に触れさせてくれてありがとう

小さな潜水艦に乗って僕の中身を見てほしい

君はすばらしい人だ

オリバーより

 

 「小さな潜水艦に乗って僕の中身を見てほしい」という言葉が、あまりにも詩的で、なおかつ巧みだ。『サブマリン』というタイトル通り、この映画の一番の主題は、この一行にある。作中では、水溜りやプール、お風呂など、様々な「水」のイメージがところどころに登場しており、父親海洋学者の設定だったりして、「水」のイメージは明らかに物語の”仕掛け”として描かれている。またその対比とでもいうように、「火」のイメージも多く登場し、二人で過ごした部屋のロウソクの火や、マッチの灯、花火を持って駆け回るシーンや、ゴミ箱から出火するシーン、初めてキスした時のカメラのフラッシュなど、ジョーダナと共に過ごした場面では印象的に「火」のイメージが使われている。

 物語終盤、家庭の問題と、ジョーダナとの問題に板挟みになり、失意の底に落ちたオリバーは、妄想の中で海に飲み込まれる。その後、カメラがすぐに切り替わって、大きなプールに制服のまま飛び込み、お風呂で自ら水中に身を沈める姿が映る。そして、その身を押さえつけているのは、オリバー本人だった。

 ラストシーンで、オリバーはジョーダナのいる海へと走る。オリバーはジョーダナに、目の前に広がる「海の深さ」を自分に尋ねるように言う。ジョーダナは訝しげな表情を見せながらも、オリバーに海の深さを訊ねる。オリバーは「6マイル」と答え、ジョーダナは「そう」と頷くと、二人は海の方へ向き直し、少し笑顔を見せて物語は幕を閉じる。

 そもそも、オリバーは、自分の中に広がる「海」の深さを知らなかった。そして、知ろうともしていなかった。いつも水面下にいて、まるで潜水艦の覗き穴からこちらを覗くようにしか、物事を見つめていなかった。”自分”という存在は、いつだって一番近くて一番遠い、”他人”だ。その自己の輪郭をはっきりさせるのは、また別の”他者”という存在を通してこそだ。オリバーは、ジョーダナと出会うことで、その”自分”というものが段々と輪郭を帯び始める。家庭の問題、そしてジョーダナとの問題に挟まれ、大きな挫折を経て、オリバーは自らの意志で海に沈み、プールへ飛び込み、そして浴槽の中に自分を自分を押し込めたのだ。それは、”自分”という”海”の深さを知るために、必要な行為だった。だから最後、オリバーは自らの”海”の深さをジョーダナに伝えなければならなかった。そのオリバーの成長を、この映画では、”水”のイメージという巧みな暗喩で、見事に描いているのだ。

 最後、オリバーの心象風景がそのまま現れたかのような、うつくしい夕暮れの海で、二人は微笑む。空白を残したまま、物語は終わっていくが、僕にはこのラストシーンが、ハッピーエンドに思えてならないのだ。

f:id:adballoon:20170424234121j:plain

追記

 つい先日、アレックス・ターナーがプロデュースした、Alexandra Saviorというシンガーのアルバムが発表された。このアルバムに「Girlie」という曲がある。ラストシャドウパペッツや客演などが目立っていた最近のアレックス・ターナーだったが、『サブマリン』みたいな曲はもう出さないのかな、と思っていたら、この「Girlie」という曲が、とても『サブマリン』のようなアレンジや音作りになっていた。「Stuck On The Puzzle」は先にも書いたように、どこか空想がちで子供と大人の中間にいるオリバーをそのままあらわしたかのような曲だったが、「Girlie」は小悪魔的でミステリアスだけど、どこかかわいげがあって、少女らしさがある曲調とアレンジになっていて、特に意識はしていないのかもしれないが、僕はこれを聞いた時、「Stuck On The Puzzle」と対になっているような気がして、グッときてしまった。

www.youtube.com

Andy ShaufとSくんと僕

 小学生の時に仲の良かった、Sくんという友達がいた。僕が小学生の時は、ちょうどデスノートという漫画が流行っていて、みんな夢中になって読んでいた。Sくんは、そのデスノートに登場する「L」という登場人物が好きすぎて、毎日学校に、長袖の白シャツとジーパンで登校していた。それだけならまだしも、挙動から仕草、発言までLに寄せまくっていて、給食に出たパンをつまむように持って、上からぶら下げるように食べていた。それも椅子に体育座りしながら食べていて、先生に行儀が悪い、と怒られていた。卒業アルバムの集合写真にも、体育座りでニヒルな表情をカメラにちらつかせるSくんの姿が残っている。冗談みたいな話だが、全部実際にあったことだ。

 Sくんはそんな、変わっているやつで、その上に人の悪口を言いまくる嫌なやつだったので、クラスからは浮いていたが、僕とはずっと仲が良かった。よく、Sくんの家へ行って、二人でゲームをして遊んだ。Sくんのお母さんは声がとても若くて、電話をかけたときによく妹さんと間違えた。家に遊びにいくと毎回たくさんのお菓子を出してくれて、優しい人だった。Sくんとは毎日のように遊んでいたが、中学が別々になってからは、会うことは無くなった。

 僕は変な人が好きだ。それは、決してこいつ変なやつだなあ、変わってるなあとおもしろがっているわけではなくて(多少そういうところもあるかもしれないが)、その人の”変”なところこそが、魅力だと思うからだ。

 カナダに、Andy Shaufというシンガーソングライターがいる。僕はこの人を去年、うちのベースの村岡くんに教えてもらって、一目惚れならぬ一耳惚れした。それは70年代のバラードや、エリオット・スミスなんかを思わせる繊細な音楽性で、ストリングスやホーンが入っていながら、ホールサイズの広がりがなく、四畳半の狭さを思わせる音楽だ。

 彼もまた、”変”な人だ。そのヤマタツライクな、おでこを完全に出したロングヘアーに目が行くが、それ以上に変なのが、彼の音楽だ。曲自体は、音楽が好きな人なら、誰が聞いたってどこか惹かれるような、強度を持ったものだが、細部にその異質な感じが現れている。

www.youtube.com

 この曲は、去年出た「The Party」というアルバムの中の一曲で、僕がAndy Shaufにハマるきっかけとなった、大好きな一曲だ。曲調としては、ビートルズライクなピアノバラードで、とても聴きやすいポップソングだが、なぜか、Aメロが終わるたびに、毎回めちゃめちゃ深いリバーブがかかる。それまでの、ミュートした上になんのエフェクトもかかっていないオケからは、明らかに不自然にかかっているのである。どこか要所にリバーブを足す、という手法はこれまでにもたくさんあったが、彼のような使い方をしているのは、聴いたことがない。だが、その不自然な感じが彼の一番の魅力になっている。

 自分も曲を作っていると、こういう突飛なアレンジを思いつく時が何度もある。大体こういうアレンジは、曲中にちゃんとハマっていないといけないし、ましてやバンドでやろうとなると、なかなか難しい話になってくる。今、世の中に出回っているポップミュージックは、大体こういう突飛なことをしようとすると、プロデューサーやアレンジャーにかけた段階ではじかれてしまうし、なかなか表に出てくることがない。今の時代は、あえて”変”な面白さを出そうとして、突飛なアレンジを多用する人も多いが、それが違和感があったり、計算くささをなくしてできている人は、なかなかいない。

 彼の音楽は、ストリングス以外、ほとんど彼が一人で弾いているらしい。それを聴いたとき、なるほど、と思った。僕が一人で宅録をしていて、思いついたような突飛なアレンジが、彼の音楽にはすべて形となって現れているのだ。僕はこういう”変”さが現れている音楽がとても好きだ。人間の”変”さは、社会に出たり、人々にもまれていく内に、段々薄れていく。音楽も同じで、社会や商業主義、聴きやすさや音楽理論的な正しさを求めていくと、どんどんその”変”さは失われてくる。それは決して間違っているわけではないが、その”変”さが”変”なまま、存在してもいいんじゃないか、と僕は思う。そもそも、普遍的だと思っている価値観自体、考えてみればただ多数派だから成立しているだけで、見方を変えれば、変か変じゃないかという話はそもそも、世の中に万延した価値観に合っているかどうか、という話でしかない。社会の求める価値観、倫理観が大きく存在しているのは仕方ないことだし、それはある種、正しいことだが、変なやつや、変なものが、自分のことを”変”であると思いながらも、それを矯正せずに、”変”であればいいのにな、と僕は思う。

 中学へ入ったSくんは、いじめられて不登校になった、と風の噂で聞いた。僕も中学校にはいろいろあって行かなくなった。Sくんのことを変なやつだな、と思ってたけど、僕も”変”なやつだったのだろう。こんな変なやつが変なまま存在してもいいんじゃないか、と思ってしまうのは、僕が誰かにそう、肯定してほしいからなのかもしれない。それでも、僕は変なやつが好きだな、と思ってしまう。

 Sくんはもう、長袖の白シャツを着ることはなくなってしまったのだろうか。とても似合っていたんだけどな。