I know that you want the candy

 僕の働いている本屋に、ほとんど毎日のように来るおばあちゃんがいて、いつもなにを買うでもなく、ふらっと僕のところへやってきては「ご苦労さん、はい、これ」と飴玉を一つくれる。その飴玉を、帰り道になめながら歩いて帰る。いつもくれるのは大体「VC-3000のど飴」で、去年の12月24日に出勤していた時は「今日はクリスマスだから」と「金のミルク」という、ちょっと良い飴をくれた。どうして「VC-3000のど飴」なんだろう、と思っていたら「ビタミン摂ると風邪ひかないから」ということらしい。僕はビタミンが風邪の予防になることを、二十四になったいままで知らなかった。思えば、ここ一年くらいはあまり体調を崩した覚えがない。名前も知らないおばあちゃんに、気づかぬうちに体調を管理してもらっていたのである。

 おばあちゃんはたまに煎餅もくれる。チョコレートもくれる。僕にただ菓子類を渡すためだけに来店しては、去ってゆく。彼女は僕にしか見えていない妖精かなにかなのだろうか?そんなことを思いながら、また飴玉を口に頬張る。

www.youtube.com

「真夜中を」に寄せて

 去年作った「百年ののち」というEPから「真夜中を」という曲のMVが公開されました。

 監督の新藤さんとは、以前から顔見知りのような関係だったんですが、彼女が撮られた写真や映像はずっと拝見していて、MVを作ろう、という話が上がった時から、ぜひ彼女にお願いできたら、と思っていました。脚本の山口さんは、ファイヤーダンス失敗として、深夜ラジオのハガキ職人をされていた頃から一方的に知っていて、それからずっと山口さんの文章や活動を追っていたので、まさか今回ご一緒できるとは思わず、本当にうれしく思っています。せっかくなので、邪魔にならない程度にこの曲について、少し語ってみようと思います。

 

 二年前にマームとジプシーの「夜」三作品を見たとき、劇中で「こんな真夜中に、朝は訪れるのでしょうか。」という台詞があり、個人的にそう思うような夜がいくつもあって、その時に「夜」について改めてちゃんと向き合おう、と思った。同時期に、岸政彦の「断片的なものの社会学」という本を友人に勧められて読み、大きな声にかき消されてしまう声のようなものに、ちゃんと耳を傾けなければいけないと思った。真夜中という時間は静かだから、そういった小さな声が聞こえてくるような気がする、そんなイメージから「真夜中を」という曲ができた。

 最初は、その友人に聞いてもらうために作っていた曲で、広く聞いてもらうつもりは無かったのだけれど、段々と自分の中でこの曲の存在が大きくなってきて、同時期にできた「百年ののち」という曲と一緒に、それらを主軸として一つの作品にしようと思った。

 この社会を生きていると、わからないもの、答えのないものにぶつかったとき、それがそのままで在るということが許されづらい。先日、詩人の石田瑞穂さんの授業にお邪魔したとき、僕らの歌詞について「不透明なままであるということ」と仰っていた。不透明なまま、その強度を上げていくということ。それができたらいいなと思っていた。

 「真夜中を」のミュージックビデオは、市井に生きるあらゆる人々の日常が断片的に映し出される。そこには感動のラストもなければ、一つの大きな筋書きがあるわけでもない。この曲自体、何かが解決するわけでもなければ、誰かを救う、みたいなこともない。だけど、ただ隣に黙っていてくれるような、そんな作品になればいいなと思っていた。だから、新藤さんから映像を頂いたとき、それが強度をもって作品にあらわれていると思って、とてもうれしかった。それは山口さんの語りと、新藤さんのまなざしがあって、なおかつ出演、関わってくださった皆様の力添えがあってこそと思います。

 あやふやなもの、不透明なもの、こぼれ落ちていってしまうようなもの、そういったものが認められるようになればいいなと思う。ぜひ見て、聴いてみてください。

(間違った)アイスコーヒー

 たとえば喫茶店へ行って、アイスコーヒーとホットコーヒー、どちらにしようかなあ、と散々悩んだ末に、それまで明らかに肌寒かったのにアイスコーヒーを頼んでしまって、ああ、ホットにすればよかったな、と後悔する、みたいなことが多々あって、日々を生きていて、なにか選択に迫られたとき、自分はいつも間違った方を選んでいる気がする。きっとそこには正しいも間違いもないんだけど、でも、そこには抗えない何かがあって、どれだけ前もって今日は間違えないようにしようと思っていても、結局アイスコーヒーを頼んでしまうし、一度間違えてしまうと、もう入れたガムシロップの量さえ間違っている気がしてくる。目の前でおいしそうに温かいコーヒーを啜る友人を見ると、どうしてみんな間違えないんだろう、と思う。だけど、それは突き詰めると単に自分の感覚に対する自信の無さだったりする。自分が頼んだハンバーグ定食よりも、相手の頼んだナポリタンの方がおいしそうに見える。隣の芝生が、僕には真っ青に見えてしまうのである。

 自分がもし死刑囚となり、最後の晩餐(スペシャル・ミール)を聞かれたとき、正しいリクエストをできる自信がない。例えばビクター・フュグールという殺人犯は最後の晩餐に「種入りのオリーブ一粒」をリクエストしたらしい。はたまた、ティモシー・マックベイという爆弾魔は「チョコチップ入りミントアイス(1リットル)」。そこには純粋に食べたい、という気持ちの中に、彼らの思想や美学のようなものが感じられて、ドキドキする。僕が好きな食べ物ってなんだろう。パッと浮かぶのは、ハイチュウのホワイトソーダ味、マクドナルドのベーコンレタスバーガー、炙りサーモンマヨネーズのお寿司、ココイチのパリパリチキンカレー。どれも恰好のつかないものばかりである。けど、よく考えたら僕の性格的に「オリーブ一粒って答えたら、なんかカッコいいかな」という自意識に邪魔されるため、無難に「ステーキ」とか「特上握り」とかその辺りになりそうだ。

 そんなことを考えていたら、7月になった。もう夏だというのに、今年は異様に涼しくて、だから喫茶店へ入る度にコーヒーの温度を間違えてしまう。ココイチは刑場までパリパリチキンカレーを届けてくれるのだろうか。「ハイチュウのホワイトソーダ味一粒」なら、むしろなんか生き様がポップカルチャーというか、消費社会へのメッセージみたいになるかもしれない。そんなことを、間違ったアイスコーヒーを飲みながらいつまでも、いつまでも考えている。

www.youtube.com

かが屋『文化祭』

 かが屋の「文化祭」というコントが本当にすばらしくて、何度も見返している。

 加賀さんの演技も良いし、賀屋さんの演じるキャラクターも絶妙である。加賀さんは自由律俳句が好きらしく、穂村弘が以前「くす玉の残骸を片付ける人を見た」(又吉直樹)という句に対して、

「くす玉」の存在意義は割れることで、その「残骸」にはもはや社会的な価値がない。だから、目に入らない。でも、それらは確かに存在している。(中略)見えないものを照らし出す危険な言葉たちに感動する。それは私が現に生きている「ここ」の生命を甦らせてくれるのだ。

 と言ってたけど、そういった「見えないものを照らし出す」目線がこのコントにはあって、「文化祭」というテーマにとって宿命的な、スクールカースト的な価値観、つまり学校の人気者を描くでもなく、または、そんな人気者を冷めた目で見つめる日陰側の学生を描くでもなく「文化祭の出し物決めで、人気のない自分の提案に票が入ったときの嬉しさ」を描いているところに新しさがある。鈴木さんが「劇」に一票を入れたところで「文化祭」を覆すことはできない。けれど、その些細な一票が彼にとって何よりも大事なのである。

 社会的に意味のないものにこそ詩の本質がある。だからこそ、僕らはこっそり持ち帰った「劇」と書かれた小さな小さな紙を、いつまでも愛おしく見つめてしまうのである。

ピーナッツバターラブ

 家にいつもネスカフェのスティックタイプのコーヒーがあって、寒くなってくると、それをよく飲んでいる。いつも使っているマグカップにそのスティックの粉末を入れて、なんとなしにお湯を入れて、なんとなしにそれを飲んでいたのだが、ふとパッケージを眺めていたら「お湯の量:180ml」と書いてあって、180mlってどんなもんだっけと思い、カップで計量して注いでみたら、いつも飲んでいる量と半分くらいのコーヒーが出来上がった。普段は欲張って300mlくらい入れていたのである。恐る恐る、口を付けるといつも飲んでいた「それ」とは、比べ物にならないくらい美味しかった。

 初めて正規のお湯の量で飲んだ、インスタントコーヒーの美味しさに感動すると同時に、なにも考えずにお湯を注いでいた、120ml分の自分の卑しさが嫌になった。なんでそんなお湯の量が多かったのかというと、たくさん飲みたかったからである。いつもマグカップギリギリまでお湯を注いで、コーヒーを作る。だが、僕はカフェインに弱い体質ですぐにお腹が痛くなるので、それをすべて飲み干すことは滅多にない。コーヒーも「ちょっと薄いな」とは思っていたが、お腹痛くなるし薄めの方がいいか、とあまり気にしていなかった。そして、毎回飲み残す量が、今思えばちょうど120mlくらいであった。

 こうなるともう、意味がわからない。自分の阿呆さ加減に腹が立ってくる。先日のM-1かまいたちが「タイムマシンに乗って過去に戻れるとしたらポイントカードを作るように伝える」というネタをやっていたけど、僕がもしタイムマシンに乗れるなら、インスタントコーヒーを規定の量で作るように伝えるだろう。

 こういう時に、自分の卑しさに気づき、落ち込むことが多々ある。コーヒーは適当に作るのに、カップヌードルは線ぴったりにお湯を入れて、タイマーを押したり、かと思えば、フリスクを買ったものの、食べるタイミングがわからず、放っておいたまま新しいフリスクを買って、フリスクがどんどん溜まっていったりする。

 例えばとんかつを食べるとき、ソースがべちゃべちゃになるのが嫌で一切れずつにソースをかけて食べる。揚げたてのとんかつの一切れにソースをそっとかけながら、こんなの全然セクシーじゃない、と思う。人から見て魅力的な人は、とんかつの一切れずつにソースをかけたりなどしない。そうわかりながら、また一切れにソースをかけてしまう。なんなら、サラダのドレッシングと、とんかつのソースが関わらないように、食べる前にとんかつとキャベツの間を箸で隙間を作ったりする。鍋を食べるときも、タレに鍋のお湯がどんどん増して薄くなっていくのが嫌で、こまめに捨てる。だが、ふと周りを見るとそんなことをしている人間はおらず、気にせず食べている。こんなことをいちいち気にしているなんてダサい、こんなの恰好よくないよ、と思いながら、気づけばそうしてしまっている自分がいる。そのことを確固たる信念やこだわり、として自分の中に位置づけられるなら良いのだが、誰か人と食べる時は見栄を張ってトンカツとキャベツに適当にソースをかけたりする。しかも、そこまでしているのに、いままで飲んでいたコーヒーがかなり薄いものだったことに気づいてない時点で、味もわかっていない。こうなってくると、救いようがない。

 せめて、自分のこだわりや考えを貫き通せる人間になりたい。森鴎外はご飯の上にあんこの入った饅頭を乗せて、お茶をかけた「饅頭茶漬」なるものを好んで食べていたらしいし、夏目漱石はいちごジャムが大好きで、瓶からスプーンで直接すくって食べていたらしい。昔、読んだダレンシャンという小説でも、オニオンのピクルスが大好物で常に持ち歩いている男の子がいた。こういうエピソードはかっこいい、というか「やばいやつ」という感じがして素敵である。

 これを読んでいる方、僕が目の前でおもむろにスキッピーのピーナッツバターを取り出してばくばくと食べ出しても、そっとしておいてあげてください。

www.youtube.com

あこがれの鍋パ

 大学生のとき、あこがれていたものの一つに「鍋パ」があった。「鍋パ」というのは同じ大学やサークルの仲の良い男女数人が集まって、その内の一人暮らしをしている誰かの部屋で鍋を囲みながら、お酒を飲んだり、教授の愚痴を言ったりなどするあれである。それが別にたこパ(たこ焼きパーティのこと)でも、リパ(沢口靖子を主宰としたリッツパーティのこと)であっても構わないのだが、とにかく男女数人で誰かの部屋に集まってお酒を飲んだりすることなどにあこがれがあった。

 当時はパーティなどとは、ほど遠い環境にあったため、鍋パへ呼ばれることも、そもそも飲み会に誘われることもほとんどなかったが、大学三年生のとき、とても社交的な友人ができた。彼に「鍋パしたことある?」「鍋パって実際どうなの?」と聞くと「鍋パくらい普通にするでしょ」と返ってきた。すごい、と思った。今思えば、鍋パに実際もなにもないのだろうけど、生活の中に「鍋パ」が自然に存在していることが羨ましかった。

 だが、僕が想像していたような「お酒買い足しにコンビニ行ってくるわ」「あっ私も行こうかな」と曖昧な関係の二人が、曖昧な距離を保ったまま冬の冷えた夜道をゆき、アパートの窓から残された二人が「ふふ」と、それを見守っている、なんていうことは起きないらしく、なーんだ、と思った。その一連を行うために「鍋パ」は開かれるものだと思っていたからだ。「普通に友達と家で飲むだけだよ」と彼は言った。

 今思うと「鍋パ」は選ばれた人間にしかできない会合のように思う。もし僕の理想とする「鍋パ」が行われ、自分が参加できたとして、いい雰囲気の二人が、二人きりで買い出しへ行こうとしているのに、その二人の曖昧な関係に気づかず「あっ、俺も行こ!」などと口走ってしまいそうである。それに鍋を囲んでも「こいつ肉ばっかいくじゃん」「めっちゃ食うじゃん」と思われるんじゃないかと気にしてしまい、うまく鍋をよそえそうにない。

 今もこの世界のどこかで「鍋パ」が行われているのだろうか。そのことを思うだけで、ドキドキしてくる。メンバーの内の一人に思いを馳せていて、その人が他の誰かと買い出しへゆくのを横目に、気が気じゃない誰かも、きっといるに違いない。だが、そんなことは現実にはほとんど起こらないらしい。そのことに薄々勘づきながらも、あこがれを思ってしまうのだ。やっぱりいいなあ、鍋パ。

www.youtube.com

ルーとライス

 カレーを食べるとき、ルーが先になくなってしまうのが怖い。ご飯とルーを、ちょうどいい配分、ペースを保ったまま食べきりたいのだが、ルーがなくなってしまうことを恐れるあまり、いつもご飯の配分を多めに食べ進めてしまう。すると、ご飯がなくなる頃に、ルーがたくさん余る、という事態が起こる。

 まただ、と思う。ほぼ毎回、と言っていいくらい、こういう結果になってしまうのだ。しかし、何度もそれを繰り返していると「意外とルーは多めにいっても大丈夫っぽい」ということを覚える。それを踏まえた上で、カレーにスプーンをくぐらせる。結果、ルーが大量に余る。自分のカレーを食べる才能のなさに絶望する。

 だが、それよりもショックなのは自分が、いちいちそれを気にして食べている、ということだ。カレーというのはどう食べたっておいしくできているのだから、元来、そこを気にする必要はないのである。だから、何も気にせずばくばくとカレーを食べ進める人の姿を見ると、かっこいい、と思う。ああ、そんなにルーいっちゃって大丈夫なの、ご飯がたくさん残っちゃうよ、ほら、ああ、やっぱり残っちゃった、などと思っている僕に対して、特に気にする素振りもなく「またルーだけなくなっちゃった」などと言われたら、負けた、と思う。

 なぜなら、そっちの方が自然だからだ。以前「放送室」で、ダウンタウンの松っちゃんが、昔、友達の家に遊びに行ったら、その友達がちょうどカップヌードルにお湯を入れたばかりで、三分後に食べるのかと思いきや、松っちゃんとの話に夢中になってお湯を入れたことに気づいておらず、それを見ていて気が気でなかった、という話をしていた。友達との楽しい会話に比べたら、彼にとってカップヌードルにお湯を入れたことなど、どうでもよかったのだ。

 僕は、カップヌードルを食べるとき、底部についているフタ止めのシールをビニールがつかないように慎重に剥がし、沸いたばかりのお湯を線ぴったりまで注ぎ、急いで封をしたあと、ほぼジャストのタイミングでiPhoneのタイマーを押す。普段では見られないようなスマートさで、それらをこなす。なるべく良い状態でカップヌードルを食べたいのである。だが、そうやって作られたカップヌードルはあまりおいしくない。誰かに適当にお湯をいれてもらったカップヌードルの方がおいしい。なぜなら、それは自然だからだ。

 ご飯がなくなって余ったルーを、一人で作った完璧なカップヌードルを食べながら、僕はこういうときあの人なら、どうするだろう、ということを考える。たとえば、カート・コバーンが、カレーのルーとご飯の配分を気にしている姿は想像できない。シド・ヴィシャスが線を越えないかどきどきしながら、カップヌードルにお湯を注いでいたら、いやだ。”本物”はいちいちそこを気にしないのである。

 カレーを食べる、という行為は自分自身を見つめることだ。今日、カレーをうまい配分で食べ切ることによって、自分はなにか変わるかもしれない。もう美容師にどんな髪型にされても、気にすることがなくなるし、好きな子に気持ちを伝えることだって、ライブ中「もっとこいよ!」とお客さんを煽ることだって、できるようになるかもしれない。そんな期待を込めながら、スプーンを手に取り、そっとご飯をすくう。ルーにくぐらせる。よし、いいぞ、今日はいい感じだ、いけるぞ、と思いながら食べ進める。変わるんだ、俺は変われる、想いをスプーンの一掬いに込める。結果、ルーが大量に余る。

 思わず手から離れてしまったスプーンが、皿の上でカランっと乾いた音を響かせる。結局自分はカート・コバーンにはなれないし、ステージ上でギターをたたき壊すこともできないのだ。でも、余ったルーのしょっぱさを知っている者にしか歌えない歌が、きっとあるはず。

www.youtube.com